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日蓮大聖人・池田大作

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全国代表研修会(第4回) 「思いやり」こそ人類に規範

1997.2.2 スピーチ(1996.6〜)(池田大作全集第87巻)

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1  近代の夜明け前――日本・ロシアの「友情の秘話」
 ある海外の学者が言っていた。
 「戦争の英雄の銅像は無数にある。平和の英雄の銅像は少ない」「戦争でたくさんの人を殺した人間の記念物は、たくさんある。人の命を救い、友情を結んだ人間をたたえる記念物は、あまりにも少ない」
 その通りと思う。皆さまは、くる日もくる日も、友のために祈り、悩み、動いておられる「友情の英雄」である。そういう尊き学会員の皆さまに敬意を表し、きょうは幕末の日本とロシアの「友情秘話」を紹介したい。日本でも、あまり知られていないドラマである。
 黒船というと、日本ではアメリカのペリーの来航を思い出す。(嘉永六年〈一八五三年〉六月に浦賀へ来航。以下、月日は旧暦)
 事実、この時から鎖国の眠りを覚まされ、日本は激動の時代に入った。明治維新は、そのわずか十五年後である。時代が変わる時は、実に早い。一気に変わる。
 しかし、この同じ年、もうひとつの黒船が日本に来た。それは、ロシアの使節プチャーチン(一八〇三年〜八三年)の来日である。(一八五三年の七月と十二月の二回、長崎へ来航)
 目的は、日本との外交関係を確立(かくりつ)することであった。
 しかも、アメリカのペリーが「砲弾による威圧」によって開港を迫ったのに対し、ロシアのプチャーチンは「対話」に徹した。皇帝ニコライ一世から、「あくまで平和的手段で」「直接の話し合いで」友好の道を開けと命令されていたのである。
 遣日使節団長プチャーチンは、出発にあたって、次のような訓令を皇帝から受けている。
 「『政府の願うところは、平和的手段により、まさに直接交渉によって、日本人をわが方の提案に引き入れることである。両国の善隣関係、相互の政治交流の利益、相互貿易の利益その他を、日本人に教示することによって』」(大南勝彦『ペテルブルグからの黒船』六興出版)
 しかし、日本の幕府は、のらりくらりと課題を「先のばし」し、返事を引きのばして、さっぱり「決断」できない。プチャーチンは粘り強く、翌年も二回、来日した。
2  遭難した日本人を救助したロシア水兵
 ドラマは、その二回目の来日の時に起こった。伊豆の下田で、やっと本格的な交渉が始まった時のことである。突然、大地震が下田を襲った。(一八五四年の十一月四日、安政の大地震)
 「マグニチュード八・四」という大地震であった。被害は本州全域に及んだ。大揺れのあと、直ちに津波が襲ってきた。下田湾の水位が十三メートルも持ち上がったほどの、すさまじい津波である。湾内には、プチャーチンはじめロシア人約五百人が、停泊した船に乗っていた。
 船は木造の帆船。右へ左へ、上へ下へ、たたきつけられるように揺れた。
 下田の町は津波を、まともに受けて、一瞬にして壊滅。波が町をなめつくし、家も人も何もかも、さらっていった。湾の中は、破壊された家々が浮かび、流され、泣き叫ぶ人々で、地獄さながらであった。
 怒涛は、湾の中を、ものすごい勢いで循環している。ロシアの船は、三十分間に四十二回も回転した。岩にぶつかりそうになる。積んでいた大砲が動き出して、水兵を押しつぶす。海水が流れこんでくる。湾の中を流されては、また恐怖の旋回が始まった。頭痛と吐き気。生きた心地もない。
3  驚くべきことは、こんななかで、ロシアの船員たちは、日本の民衆を救っていることである。ぐるぐる回る船のそばを、人々が流されてくる。船員たちは、自分が生きるか死ぬかという時に、流されてくる人々に、懸命に救助の手を差し伸べたのである。
 ところが、当時の日本人は、「異人(外国人)と接触してはならない」と教えこまれていた。それで、ほとんどの人が、差し伸べられた手を断り、むざむざ命を捨ててしまった。
 間違った教育の悲劇である。本来、生命以上に尊いものがあるはずがない。

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