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日蓮大聖人・池田大作

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全国代表研修会(第2回) 第三の人生=高年時代を「実りの秋」に

1997.2.1 スピーチ(1996.6〜)(池田大作全集第87巻)

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1  「長命社会」から「長寿社会」へ
 「第三の人生」――高年時代を、どう総仕上げしていくか。このテーマが、社会全体に、いよいよ切実に迫ってきた。
 二〇二五年には、「日本の人口の四人に一人が、六十五歳以上」。二十一世紀半ば(二〇五〇年ごろ)には、「人口の三人に一人が、六十五歳以上」になると推定されている。また、現在、介護が必要な人は二百万人、二〇二五年には五百二十万人になると予想されている。
 この二月に創刊百二十五周年を迎える「毎日新聞」でも、「長命社会を生きる」という新連載が、元日号から開始された。
 「今、私たちすべてが長い命と向き合い、手を取り合いながら生きるすべを考え、模索する時にきている。『実りのある生』を得るにはどうすればいいのだろう。新しい社会を築く道はどこにあるのだろうか」
 連載の開始にあたって、こう書かれている。まことに大切な視点と思う。あえて、「長寿」社会といわず、「長命」社会としているのは、「命が長いことを『寿ことほぐ=祝う』だけではすまない現実を見据えたかったからだ」という。
 私どもの願いから言えば、「長命」社会を、何としても「長寿」社会にしていきたい。そのための智慧を、ともに学んでいきたいということになる。
2  第一部は、三十代の若手記者が中心になり、さまざまな「老い」を見つめる。葬儀の始末を「生前契約」しておき、だれにも知られず、そっと死んでいく学校の先生。作家として有名な父がアルツハイマー病になったことを、皆の参考になればと、あえて明かした令嬢。″ぼけてしまった″母の親がわりとなって、仕事と介護を両立させ、奮闘する壮年。パソコンのネットワークを通し、世代を超えて少年とも交流する″元・特攻隊の兵士″。八十九歳で、一人、美容室を営み続ける、張りのある女性。
 そうした一人一人の生き方に光を当てつつ、介護や親子関係、痴呆、安楽死の問題などを、読者とともに考えていく。記者自身も、「人ごと」ではなく、一人の人間として、また、老いた父や母を抱えた子として、「老い」と向かい合おうとしている。
 ある記者は、こう記している。「長命社会は生き方に改めて選択や気構えを求める。それは一様ではない。明るさ。強さ。苦悩や不安。人やその歩んできた半生によって語る言葉は異なる。しかし、取材に歩きながら、私はこれを『自分』にも問わねばならないことに度々気づかされた」
 読者からも、大きな反響が寄せられているようである。先日、私が、ある学者と懇談した折にも、この連載のことが話題となった。
 介護や、痴呆の問題については、聖教新聞での″健康てい談″でも具体的に語り合ってきたので、本日は、略させていただく。
3  看護の姿に「菩薩」の美しさ
 大聖人が、門下の一婦人(富木常忍の夫人)に送られた御手紙の一節に、こうある。
 「ときどの富木殿の御物がたり候ははわのなげきのなかにりんずう臨終のよくをはせしと尼がよくあたりかんびやう看病せし事のうれしさいつのよにわするべしともをぼえずと・よろこばれ候なり
 ――富木殿が語っておられました。『このたび、母が亡くなった嘆きのなかにも、その臨終の姿がよかったことと、尼御前(妻)が母を手厚く看病してくれたことのうれしさは、いつの世までも忘れられない』と喜んでおられましたよ――。
 この女性(富木殿の夫人)は、自分自身も病弱であった。九十代の高齢の姑の介護は、言うに言われぬ心労続きであったに違いない。そうした人知れぬ労苦を、大聖人は、心から理解され、ねぎらい、いたわっておられる。
 このあと大聖人は「しかし、何よりも気がかりなことは、あなた(尼御前)のご病気です」と、さまざまな事例を引いて激励しておられる。
 すべてを見守ってくれる、まことの師匠というものは、しみじみ、ありがたいものである。
 ともあれ、高齢者や、病気や障害のある家族を抱えていることは、少しも恥ずかしいことではない。むしろ、その家族の一員を、いとおしいと思い、慈しみ、守っていく。その姿それ自体が、まさしく仏法で教える尊い「慈悲」なのである。「菩薩」の姿に通じる。

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