Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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全国代表者会議(第1日) 打って出よ われらは革命児

1996.11.22 スピーチ(1996.6〜)(池田大作全集第87巻)

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1  新天地を求めて船出した清教徒ピューリタン
 一六二〇年の秋。九月であった。イギリスから大西洋の大海原に船出し、嵐をついて、新天地アメリカへ向かう一隻の小さな船があった。アメリカ建国の原点である「ピルグリム・ファーザーズ(巡礼の始祖)」を乗せた、三本マストの帆船である。
 船の名前はメイフラワー号。″五月の花″の意味である。わずか長さ二十七メートル、一八〇トンの小型船であった。もともと、人を乗せる客船ではなく、フランスからイギリスヘ、ワインを運ぶ使い古した商船である。
 大西洋には、秋から冬にかけて、「彼岸嵐」と呼ばれる季節風が吹き荒れ、船は木の葉のように、揺れに揺れる。不用意に甲板に出ようものならば、たちまち波にさらわれてしまう。船室にも、容赦なく風や雨が吹きこんでくる。当然、船酔いも激しい。いずれにせよ、死と隣り合わせの、命がけの航海であったことは確かである。
 この船で荒海を越え、未知の新世界を目指しゆくのは、一体、どんな人々であったのか。その中核を担ったのは、信仰の理想の炎に燃えるピューリタン(清教徒)たちであった。
 すし詰めに乗った百二人の船客のうち、四十一人が清教徒。また百二人のうち二十九人が女性であった。″核″が大事である。″核″になる人が勇敢であり、責任感があり、思いやりがあれば、皆が勝利できる。
2  清教徒たちは、聖職者の腐敗や堕落を絶対に許さなかった。教会の傲慢な差別や形骸化を認めなかった。そして「宗教改革」を、未完成のまま終わらせては断じてならないと、立ち上がったのである。
 ところが、この新たな改革の動きをつぶそうと、旧勢力は猛然と攻撃してきた。これが歴史の常である。″服従せよ! さもなければ追放する″という権力の恫喝が加えられた。
 当時の記録によれば、清教徒たちは「四方八方から追いたてられ、迫害された。(中略)ある者は連れていかれて牢にたたき込まれ、またある者は、家を包囲されて、夜となく昼となく監視され、その手から逃れることはほとんどできなかった。そしてたいていの者は、住みなれた家と土地を残し、生計のすべてをすてて、やむなく立ち去らねばならなかった」(アメリカ古典文庫15『ピューリタニズム』大下尚一訳、研究社出版)という弾圧の連続であった。
 そうしたなかで、一部の清教徒たちが、オランダへの移住を経て、新大陸アメリカへの旅立ちを決心した。これがメイフラワー号の出発となったのである。
3  彼らは考えた。″何もせず、ただ老いていくのみでは、やがて敵の罠に陥ったり、取り囲まれて、そこから出て戦うことも、逃げることも、できなくなってしまう″と。
 そして、今こそ、自分たちから打って出て、自分たちの理想の国土を、自分たちの力でつくろう! と行動を起こしたのである。
 彼らは、いわゆるエリートではなかった。その多くがイギリスの小さな村の出身。中心のリーダーであったブラッドフォードという青年は、聖職者でもなければ、大学出でもなかった。父がいないなか、苦労して人格を鍛え上げた人物である。
 苦労に徹した人、また、しっかりと地に足のついた庶民こそが強い。学会を支え、守ってくださっているのも、そういう尊い方々である。いわゆるエリートは、要領がよく、ずるい場合がある。この時、青年リーダーは三十歳。若き血潮が熱くたぎっていた。
 戸田先生も言われていた。
 「閉ざされた青年であってはならない。水の信心というけれども、水も、時と条件によっては、沸騰することもあるのだ。革命児は、ただの平穏な、ゆっくりした生活を夢見るようでは、成長できなくなるだろう」と。

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