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日蓮大聖人・池田大作

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第二十一回SGI総会(第2日)(1) 幸福は大いなる人格の中に

1996.6.23 スピーチ(1996.6〜)(池田大作全集第87巻)

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1  充実の人生こそ幸福
 第二十一回SGI(創価学会インタナショナル)総会、おめでとう。
 日蓮大聖人は仰せである。
 「一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ」――一生をむなしく過ごして、万年の間、悔いてはならない――と。
 人生いかに生きるべきか。どう生きることが一番、価値があるのか。
 日本の著名な作家の言葉に「花のいのちは みじかくて 苦しきことのみ 多かりき」(林芙美子)とあった。花は、ぱっと咲いて、ぱっと散る。長く残るのは苦しきことのみである――と。人生も事実、その通りかもしれない。
 ある哲学者は、一生の終わりに計算してみて、楽しいことのほうが多かったか、それとも苦しみのほうが多かったか、その結果によって幸・不幸を決めるしかないかもしれない、と語っている。
 どんなに地位があり、財産があっても、幸福をつかめない人は多い。どんなに素晴らしい結婚をしても、いつかは愛する人と別れなければならない。愛別離苦あいべつりくは避けられない。
 どんなに有名人になっても、病気で苦しみきって死んでいく人は、たくさんいる。美しく生まれたために、かえって、人生を不幸にする人も少なくない。
 一体、幸福は、どこにあるのか。どうすれば幸福になれるのか。これが人生の根本問題であり、永遠に追求すべき課題である。これを解決したのが仏法であり、信心なのである。
 結論的に言えば、幸福は自分自身をどう確立するか、という問題である。立派な邸宅とか、名声といった外面的な幸せは「相対的幸福」である。揺るぎない「絶対的幸福」ではない。
 どんなに幸福そうな環境にあっても、自分自身がむなしさを感じ、苦しみを感じていれば、不幸である。
 最高に立派な家の中で、けんかばかりしている人もいる。皆がうらやむ有名な会社に勤めていても、いつも上司から叱られ、仕事に疲れ、味けない思いをかみしめている人もいる。
 幸福は″見かけ″のなかにはない。″見栄″のなかにはない。自分自身が実際に何を感じているか、その生命の実感の問題である。
2  それを前提に申し上げれば、幸福の第一条件は、「充実」であろう。
 「本当に張りがある」「やりがいがある」「充実がある」――毎日が、そのように感じられる人は、幸福である。多忙であっても「充実」がある人のほうが、ひまでむなしさを感じている人より、幸福である。
 私どもの場合、朝起きて勤行をする。いやいやの人もいるだろうが、勤行をすること自体が偉大である。勤行は、いわば大宇宙を見わたし、見おろしていく荘厳な儀式である。宇宙との対話である。
 御本尊に向かって勤行・唱題することは、わが生命の夜明けであり、太陽が昇ることであり、この上ない生命の「充実」である。この一点だけでも、私どもは幸福である。
 幸せそうに見えても、朝からゆううつな気分で一日をスタートする人もいる。朝、奥さんに叱られ、「何で、こんな結婚をしちゃったんだろう」と、ふさぎこんで一日を出発する――これでは不幸である。充実はない。
 朝だけをとっても、私どもは最高に充実した、価値ある人生となっている。
3  哲学、信念、明朗、勇気、包容力
 そのうえ、だれよりも立派に仕事し、生活を勝利しきって、あまった時間を「法のため」「広宣流布のため」「人のため」「社会のため」に使っている。
 ″根性曲がり″の人間が多い末法にあって、苦労しながら、ただ相手の幸福のために、祈り、足を運び、語り、心をくだき、面倒をみておられる。
 まさに菩薩であり、これほど偉大な「哲学ある人生」はない。最高の哲学を実践し、弘めておられるのが皆さまである。
 それだけの価値ある哲学をもったということ――それ自体が幸福である。幸福の第二の条件は、「深き哲学をもつ」ことである。
 第三に、「信念をもつ」ことである。何が悪か、何が善か、わからない時代になってきた。
 これは世界的傾向である。このままでは、人類は混乱と退廃に向かう以外にない。そのなかにあって、皆さまは「最高善」の仏法を奉じ、その教えを実践し抜いておられる。
 日蓮大聖人の仰せに「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」――結局のところは、諸天も我を捨てたまえ。諸難にもあえ。身命をなげうとう――と。
 ″日本国の支配者の地位をゆずろう″というような誘惑、″父母の頸をはねるぞ″というような脅迫にも紛動されてはならない、と。
 何があろうと、大聖人の仰せのままに、厳然と「信念」を貫くことである。そういう「信念」のある人が、必ず幸福になる。それが皆さまである。
 第四に、「朗らか」に、生き生きと生きることである。
 「いつも文句」「いつもグチ」――それでは自分も周囲も不幸である。いつも前向きに、はつらつと生きている。
 人にも「あの人と会うと元気が出る」「気持ちが明るくなる」と言われる朗らかさがある。その人は幸福である。皆にも希望を与える。
 いつ会っても、つまらなそうな顔をして、喜びも感激もない。それでは、人生は暗い。
 反対に、奥さんに叱られても、「何か浪花節なにわぶしが聞こえるな」。子どもの成績が悪くても「将来、段々よくなる前兆だ」。たとえば、そういうふうに、全部、よい方向に、よい方向に、とらえていく。その強さ、賢さ、明るさが幸福を生む。
 すべてを善意で受けとめるといっても、愚かな、お人よしになるという意味ではない。現実をしっかり見つめつつ、よい方向に受けとめることによって、実際にその方向にもっていくという「賢明さ」のことである。そういう「人格」をつくるのが、信仰であり、仏法である。そういう人格を築き上げれば、いかなる財産よりも素晴らしい人生の宝である。
 第五の条件は、「勇気」である。勇気のある人は、何でも乗り切っていける。勇気のない臆病な人は、人生を楽しめない。それでは不幸である。

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