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日蓮大聖人・池田大作

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11.18「創立記念日」の集い 殉教の初代会長──「今は『国家悪』の時代」

1994.11.18 スピーチ(1994.8〜)(池田大作全集第85巻)

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1  牧口先生の崇高な殉難から五十年
 牧口先生が亡くなられたのは、五十年前の昭和十九年(一九四四年)のきょう、十一月十八日である。奇しくも、創立の日(昭和五年十一月十八日)から十四年後、「七つの鐘」の第二の七年が終わったときであった。
 その一カ月前の十月十一日。獄中の牧口先生のもとに、三男の洋三氏の戦死の報が届いた。
 八月三十一日、中国で戦病死──三十七歳の若さであった。
 牧口先生は十月十三日、ご家族への便りに、こう書かれている。
 「びっくりしたよ。がっかりもしたよ」(『牧口常三郎全集』第十巻。原文のかなは片仮名、以下同じ)
 洋三氏は、早稲田実業高校のとき、野球部で甲子園にも行っているスポーツマンであった。大学卒業後、銀行に勤めているときに、軽い肋膜炎を、わずらった。昭和十四年(一九三九年)三月、戸田先生ご夫妻の仲人で、貞子夫人と結婚されている。
 戦死は、二度目の召集の際であった。
 一年半、大陸で従軍されていた。
 日夜、無事を願っておられた牧口先生の落胆は大きかった。心配をかけないように、ご自身の入獄のことは、戦地の洋三氏に知らせておられなかった。
 戦死の報を嘆かれながらも、牧口先生は遺された家族を気づかわれた。(同日の便り、先の言葉に続けて)
 「それよりも、御前たち二人〈=クマ夫人と洋三氏の夫人・貞子さん〉はどんなにかと、案じたが、共に、立派の覚悟で、あんど〈=安堵〉して居る」
 こよなく、かわいがっておられた孫の洋子さん(洋三氏の令嬢)のことも、不愍に思われたであろう。
 入獄されてから四百五十日を超えていた。老齢(七十三歳)の先生の身に、残酷な知らせであった。寒さも、つのっていた。
 食糧難は、ただでさえひどかった。まして獄中である。栄養失調が進んだ。体力が急速に衰えていった。
 この便りが絶筆となって、一カ月後、牧口先生は東京拘置所の病監で亡くなられた。
 逮捕(昭和十八年七月六日)から五百二日目であった。
 前日の十一月十七日、病監へ移ることを看守に申し出られ、衣服と頭髪を整えられた。移動に際しても、看守の手を借りることを潔しとせず、自ら歩いて行かれたという。
 日本国家は、「正義の人」牧口先生を獄死させただけでなく、その子息をも奪った。
 戦病死──病身の洋三氏に、大陸の激しい寒暑のなかでの軍務は無理であった。一度目の召集のときは、病身ゆえに帰されている。
2  当時の日本で、政府に目をつけられれば、国賊と言われ、家族をも巻き込むことになった。
 あるカナダの学者は書いている。
 「日本国民は、まもなく、政府への公然たる非難は当人への過酷な制裁のみでなく、家族や友人への迫害をも招くことを悟った。それ以上に、戦時中に統治エリートを批判することは、戦場にいる兄弟を見捨てることに等しい行為と考えられたのである」(M・F・ネフスキー「天地の公道 日本戦中期における宗教と国家」、「東洋学術研究」第二十九巻第二号所収)
 牧口先生は、ご自分が「神札」を拒否し、日蓮大聖人の仏法を貫けば、戦地の子息にまで累が及ぶ可能性を知っておられたと考えられる。それでも、あえて先生は言われたのである。
 「いまこそ、国家諫暁の時ではないか。宗門は、なにを恐れているのか知らん」と。
 牧口先生の逮捕が、洋三氏の戦死に影響したかどうかは、わからない。わかることは、牧口先生が何ものも恐れず、権力と戦い抜かれた偉大さである。
3  獄中の諫暁──「国家悪時代」を指摘した先見
 先生は、獄中の取り調べでも、堂々と信念を主張された。
 予審判事の取り調べは、東京刑事地方裁判所で行われ、東京拘置所から小型バスで行った。十五人ぐらいの収容者が、手錠をかけられたまま、数珠つなぎで護送された。バスの窓はシャッターがおろされていた。頭には編笠をかぶせられた。
 裁判所では、まず鉄格子のある地下の部屋に入れられ、そこから取調室に呼ばれて、一対一の取り調べを受けた。
 牧口先生は、仏法の正義を判事に説いた。そればかりか、言い足りなかったことを、後から文書で付け加えられている。
 「毎日さいばん所へ通って書いているが、一冊の本になります」(昭和十九年五月八日の便り。前掲『牧口常三郎全集』第十巻)
 「一ケ月も毎日書いて、一冊の本となり」(同七月四日の便り)
 一冊の書物になるほど、先生は獄中で書かれたのである。まさに獄中における烈々たる「諫暁」であった。
 この原稿が判事に渡されたあと、どう処分されたかは不明である。

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