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日蓮大聖人・池田大作

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創立の日記念第82回本部幹部会 学会は戦う「善の力」の連帯

1994.11.12 スピーチ(1994.8〜)(池田大作全集第85巻)

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1  牧口先生「悪の結託を放置すれば社会は悪化」
 牧口先生が、入信されたのは昭和三年(一九二八年)。五十七歳の時である。戸田先生も、同じ年、牧口先生に続いて入信されている。当時、二十八歳の青年であられた。
 また、この年は、私が生まれた年でもある。
 牧口先生は『創価教育学体系』の中で、こう記されている。
 「法華経の信仰に入らなかったならば、余が善良なる友人知己のように、なるべく周囲の機嫌を損ねぬように、悪い事は見ても見ぬ振りをし、言いたいことも控え目にして、人に可愛いがられなければ損であるという主義を守っていられたであろう」
 「けれども誰も彼もが皆この賢明なる主義であったなら、国家社会はついにどうなるべきであろう」(「教育改造論」、『牧口常三郎全集』第四巻、第三文明社)
 他人との衝突を避け、悪を見て見ぬふりをする、事なかれ主義。だれもが皆、この姿勢で、ずるがしこく、″上手に″立ち回るようになれば、社会はどうなるか。
 悪人がどんどんはびこり、善人が迫害される社会になってしまう。仏法者として、それを放置することはできない──。
 ゆえに、先生は、「善の戦い」すなわち「悪との戦い」に、決然と立ち上がられたのである。「悪への挑戦」を開始されたのである。
 ″悪を見て、放置してはならない″──これが、真実の仏法の教えだからである。
2  「悪人は結託する」──牧口先生は、こう喝破された。
 悪人は何かしら弱みをもっており、孤立していては安心できない。ゆえに、他人と共同し、とくに強者の保護のもとで、その身を守ろうとする、と。また共通の敵に当たるために、たやすく結束をする、と。
 (「悪人は孤立しては安心してはいられないほどに生存上の欠陥をもっているがために、たちまち他人と共同し、ことに強者庇護のもとに在って、その身を防禦しようとするのである」「犯罪者は何処にあっても、常に戦々兢々として発覚を怖れるがゆえ、共同の敵に当たるためには、容易く結束をなしてそれにともなう窮屈や圧迫を忍ぶ」〈同前〉)
 いつの時代も変わらぬ悪の方程式を、牧口先生は見抜かれていた。現代にも通じる、牧口先生の「哲学」であり、「予見」である。先生は、まことに不思議な、偉大な方であられた。
3  しかし、「悪人たちの結託」に対して、善良な人は、なかなか力を合わせることができない。それはなぜか。
 「善人は自分に弱味のないので、孤立して対抗力を形成することをしないから圧迫され勝ちである」(「小学校長登用試験制度論」、同全集第八巻)
 つまり、善人は悪人と違い、自分に弱みがないので、わざわざ団結しようとしないというのである。その結果、どうなるか。
 「強くなってますます善良を迫害する悪人に対し、善人はいつまでも孤立して弱くなっている。一方が膨大すれば、他方はますます畏縮する。社会は険悪とならざるを得ないではないか」(前掲「教育改造論」)
 結託し、どんどん強くなる悪の力。孤立し、ますます弱くなる善の力。それでは、社会はすさみ、暗くなる。険悪となっていく。現代の日本そして世界も、先生の言葉の通りになってしまったといえないだろうか。

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