Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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ヨーロッパ・アジア交流会議 「母の心」をわれは崇めん

1994.6.6 スピーチ(1993.12〜)(池田大作全集第84巻)

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1  ミケランジェロの遺作に人間主義の結晶
 素晴らしい彫刻を見た。「ロンダニーニのピエタ」。ミケランジェロ(一四七五〜一五六四年)の最後の作品である。
 彼は八十九歳で死ぬ数日前まで、この作品に向かっていたという。死の床のかたわらにも、この像があった。未完であるが、受ける印象は完全である。
 刑死したイエス・キリストを母のマリアが抱きしめている。「ピエタ」とは「慈愛」の意味。死せる我が子を抱きしめている「悲母」の像である。
 ミケランジェロは、ピエタ像を生涯に四つ残しているが、どれも傑作の誉れが高い。なかでも最後のこの作品は、未完で洗練されていない分、むき出しの迫力で迫ってくる。
 子を抱く母、死して母のもとへ帰った息子──その「悲痛」と「安心」が飾りけなく、直截に胸を打つ。
 私は直感した。──息子はミケランジェロ自身であろう。長く、複雑な人生の終わりに、彼は″母″のもとに帰ったのだ。
 「安穏」をもたらしてくれるのは、よそよそしく、はるかなる神ではなく、聖職者でもない。人間しかない。母しかない。生身の人間の慈愛しかない。その象徴が、この母の像である。
 彼の最後の思想、「人間主義」の結晶が、ここにはある──と。
2  この像は現在、ミラノのスフォルチェスコ城にある。ナポレオンが一七九六年、ミラノを占領したとき、使った城である。
 ピエタ像は、ローマで作られたものだが、ロンダニーニ宮に所蔵されたあと、一九五二年にこの城の博物館に置かれた。
 ミケランジェロの作品はすべて、肉体的な美が極限まで表現されている。しかし、この像には、まったく、それがない。純粋に精神そのものが表現されているかのようである。
 たとえば、母と子は、かつて一つだったように、もう一度、溶けて一つになっているかに見える。
 母が子の上にかがみ、抱いているのだが、子が母を背負っているようにも見える。
 死が二人を引き離したのだが、死が二人を結びつけたかのように見える。
 子の体は地に倒れようとしているのだが、母のいる上方へ引き上げられているかにも見える。
 ミケランジェロは、この作品で、自分自身の″魂を彫った″のだと私は思う。
3  ミケランジェロ「僧侶が世の中をめちゃくちゃにした」
 ミケランジェロには「信仰はあったが、聖職者への尊敬はまったくなかった」と伝えられている。
 彼は巡礼に行こうという甥に、そんなことはやめるよう手紙を書いている。(一五四八年四月七日)
 「坊様に金を持って行けば、彼らがそれで何をするかは神様がご承知だから」(コンディヴィ『ミケランジェロ伝』高田博厚訳、岩崎美術社)
 また、ある人が寺院に一僧侶の像を描こうとしたとき、彼は、そうすれば絵の全体がだめになると考えて言った。
 「僧侶というものはこんな大きな世の中でさえめちゃめちゃにしてしまったのだから、この小さな礼拝堂をめちゃめちゃにするからといって驚くにはあたらないだろう」(ロマン・ロラン『ミケランジェロの生涯』蛯原徳夫訳、『ロマン・ロラン全集』13所収、みすず書房)
 また法王パウロ四世が、彼の絵を修正させようとしたときも、言い放った。
 ″絵を直すことなど、わけもないことだ。法王は世の中を正しく直してみせてみよ″
 彼は、長い付き合いで、聖職者のウソと腐敗を、裏の裏まで知りつくしていた。何が聖職者だと、腹に怒りを貯めこんでいた。
 そんな彼が、最後に、だれから依頼されたのでもなく、自分自身のために作ろうとしたのが、この母子像だったのである。
 ミケランジェロは終生、「人間」の精髄を求め、「人間」の醜悪を、とことん味わいつくしながら、なおも「人間」の至高の美を究めんとした。母子像は、そんな彼の生涯の集約であり、到達点でもあった。

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