Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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欧州代表者会議 「正義の弓を射よ、直ちに」

1994.6.5 スピーチ(1993.12〜)(池田大作全集第84巻)

前後
1  詩聖ダンテの信念──妬みの風を堂々と見下ろして
 イタリアといえば、詩聖ダンテ(一二六五年〜一三二一年)。私も青春時代からダンテが大好きであった。
 ダンテの『神曲』は、古来、人々を奮い立たせてきた。
 「私について来給え、あれらの者には
 勝手に話させておき給え、風が吹いても
 頂きのゆるがぬ堅い塔のように立つのだ」
   (『神曲』浄罪篇第五歌、野上素一訳、『世界古典文学全集』35所収、筑摩書房)
 マルクスが『資本論』の序の結びを、この詩から取ったことは有名である。無責任な風評などに私は耳を貸さない、と。
 この詩は、ダンテが師のウェルギリウス(ダンテが詩作の範としたローマ時代の詩人)から叱られる場面である。
  「なぜきみは心ひかれて
  のろのろ歩くのだ、彼らの私語など
  いったいきみになんの関係があるのだ」(同前)
 風に揺るがぬ塔のように立て。そして堂々と、我が道を進め──師の言葉に仮託した、ダンテ自身の信念であった。
2  ご承知のように、このたびボローニャ大学で私は講演を行った。
 (六月一日。「レオナルドの眼と人類の議会──国連の未来についての考察」をテーマに講演。また、この日、ボローニャ大学の博士推されたSGI会長に、中世以来の伝統に輝く同大学の「ドクター・リング」がロベルシ=モナコ総長から贈られた)
 総長室へ向かう途中に、ダンテの胸像があった。「一二八七」の年号が刻まれていた。ダンテが、勉強のためボローニャ大学を訪れたとされる年である。
 この年、ダンテは二十二歳。法学、文学、哲学を学び、「雄弁論」の講義を聴講したという。
 ボローニャの町の中央に今もある斜塔(ガリセンダ塔、高さ四十八メートル)について詩を残している。この塔のそばに、私の宿舎はあった。
 『神曲』にも、この塔のことが出てくる(地獄篇第三十一歌)。またボローニャの人物についても多くの言及がある。ボローニャは、ダンテの青春の町であった。
3  このあと、ダンテの人生は、初恋の女性ベアトリーチェの死、フィレンツェの政争に巻き込まれての追放、流浪──と苦難が続く。若々しかった額にも、深い皺が刻まれた。
 しかし、彼の精神は、誇り高く、そびえ立っていた。追放さえも「名誉」と考え、「正義を教える男子」と自称し、一人、塔のごとく揺るがなかった。
 「現世の評判など、今日はこちらへ明日は
 あちらへ吹き、その方向が変わると名も変わる
 一陣の微風のようなものです」(同、浄罪篇第十一歌)
 彼は、圧迫の本質を見抜いていた。
  「嫉みにみち、それが袋から 溢れている」
  「驕慢と嫉妬と貪婪の三つの火花が 人のこころを燃やしていたのです」(同、地獄篇第六歌)
  「忘恩の悪い市民たちは
  きみの善行のゆえにきみの敵となるであろう」(同、地獄篇第十五歌)
 ゆえに、臆病であってはならない、と。
  「きみの魂は怯惰にとりつかれているのだ。
  それはしばしば人間のじゃまをし、
  幻覚によって、ものの影を獣と見あやまらせ、
  誉れある計画からそれさせてしまうことがある」(同、地獄篇第二歌)

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