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日蓮大聖人・池田大作

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新春幹部会、第2回関東総会 ″私は徹する、ただ民衆のために″

1994.1.9 スピーチ(1993.12〜)(池田大作全集第84巻)

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1  「伸びゆく人」には生命の広がり
 全国の皆さま、栄光の年、あけましておめでとうございます!(拍手)
 皆さま方が、健康で、希望に燃えて、幸福になっていかれますように、裕福でありますように、そして長寿であり、無事故でありますように──私は毎日、真剣に、ご祈念してまいります。(拍手)
 また、きょうは、「関東総会」おめでとう。遠いところ、寒いなか、本当に、ご苦労さまです。(拍手)
 「人材育成」──。私は本年、この重要な課題に、全力をあげる決心である。その意味を含め、少々、お話しさせていただきたい。
2  作家・吉川英治氏の随筆(『折々の記』、『吉川英治全集』52所収、講談社。以下、引用は同じ)に、こうあった。
 「育つものを見るのは気もちがいい。ぼくは、育つものが好きである。
 友人達が骨董談に耽っている中で、舟橋聖一氏ひとりは『ぼくは生きてるものが好きだ』と云ったそうだが、ぼくは骨董も嫌いではないが、より以上に、育つものが好きである」と。
 吉川氏は、「土」でいうなら、新芽が土を割って出る五月の大地が好きだという。私も同じである。
 「反対に、おなじ土でも、たとえば現代の寺院などに立ち入ると、あの数世紀間も踏みかためられたまま、冷んやりしきった土」は、「育つものを生む何の力も失った」土であり、「何の希望もよろこびも足の裏から触れて来ない」と氏は比較している。その通りと思う。至言である。
 「人間のばあいにしてもそうである。『もう育ちはない』と思われる人と対坐していると、堪らない退屈が座間にただよい、こっちも、やりきれないものに鬱してしまう(=憂鬱になる)」と。
 たしかに「育つ人」と「育たない人」がいる。「育つ人」と会うのは楽しい。どうしても「育たない人」には、わずかの時間を使うのも惜しい。
 氏は「育つ人、育ちのない人の差」は、年齢には関係がない、若い人でも「五分間で、欠伸をおぼえる」こともあれば、年をとっていても「ゆたかな生命のひろがりを覚えさせる」人もいると書いている。
 五分も会えば、たしかにその人が見えてくる。
 政治家についても、「この『育つ人間か、否か』に依って、大体の支持が分れているのであろう」「大衆の生理とそして無意識な嗅覚とは、『育ちのないもの』は好まないに極っているからだ」と。
 イデオロギーより、何より、「人間」である。人物のフレッシュさである。その人自身が伸びているか、育っているか、新鮮味があるかどうか。大衆はこれを鋭く見ている。大衆の目は厳しい。ごまかせない。
3  生き生きと「成長しつづける」のが信仰者
 随筆を、氏は、こう結んでいる。
 「地球自体の生態は、四季不断に、何かを育てたがっているものにちがいない。そしてその大きな地表の部分部分でも、育ってゆく国、育ちのない国とがあるのは、そこに住む民衆の人為にすぎまい。長い歴史と文化にふみかためられてきた日本の土も、今日の寺院のような単なる地べたにはしたくないものだ」と。
 宇宙には「育てる力」がある。生命には「育つ力」がある。
 氏の言うように、地球は、いつも何かを「育てよう」としている。春も夏も秋も冬も。花を育てよう、野菜を育てよう、木を育てようと。
 宇宙の「育てる力」。生命の「育つ力」──その根源が妙法である。その実践が信心である。
 「妙とは蘇生の義なり」と日蓮大聖人は仰せである。妙法に連なっていけば、どこまでも生き生きと「成長」「発展」の軌道を進んでいける。個人も、団体も、国も、この方程式は変わらない。ゆえに信仰者とは「育ち続ける人」でなければならない。
 また、仏意仏勅の創価学会は「育ち続ける団体」である。そして「人材をつくる」団体、「有為な人間を社会に輩出する」団体なのである。(拍手)
 反対に宗門は、何も生まない、不毛の「死の大地」となってしまった。

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