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日蓮大聖人・池田大作

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第73回本部幹部会、第8回東京総会 何があっても朗らかに、そして勝利

1993.12.18 スピーチ(1993.12〜)(池田大作全集第84巻)

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1  幸福は喜んで耐える強さ、生きぬく力に
 この一年、本当にありがとうございました。ご苦労さまでした。(拍手)
 いろんな悩みも、苦しみも、いやなこともあったと思う。しかし先日も、ある方が、秋谷会長に言われていた。
 「何があっても、創価学会は朗らかに前進している。すごいことですね。この何十年、全部そうですね。全部、朗らかに乗り切っていますね」と。(拍手)
 また、ある老婦人は、この方も学会員ではないけれども、手紙に「学会の姿こそ、本当の信仰者の姿です。すべての宗教の模範です」と書いてこられた。
 その通り、私どもは、一切の波を押しのけ、乗り越えて、戦い、勝った。重ねて「よく頑張ってくださいました」と御礼申し上げたい。(拍手)
2  仏の別名を「能忍」という。「能く忍ぶ」。何でも耐えていける人のことである。
 何があっても恐れない。何があっても屈しない。迫害されようが、牢へ入れられようが、全部、耐え切って、不平ひとつ言わない。こういう人には、だれもかなわない。
 「胸にピストル」を向けられようと、脅されようと、平然として戦っていく。生き抜いていく。結局、その人の勝ちである。
 その意味で、人間として「最高の幸福」の根底とは、何があっても「能く忍ぶ」強さである。生きて生きて生き抜く力である。それが「仏」の境涯なのである。創価学会には、この力がみなぎっている。ゆえに耐え抜いた。ゆえに勝った。(拍手)
 「仏」という三世永遠に崩れない幸福境涯を固めるのが、信仰の目的である。そのために今世の仏道修行がある。今世を戦い抜いて、その境涯を勝ち取っていくのである。
 「永遠」から見れば、三十年や五十年は、あっという間である。
 「仏」の境涯になる「原因」を、自分自身がつくっていく。そして、その「結実」を証明する、最高に幸福な自分自身となっていく。それが仏道修行である。
 どんな世界にも「修行」はある。柔道、剣道、相撲、ピアノ、その他、修行なくして向上があるはずがない。勝利があるはずがない。
 耐えて練習し抜いて、その「道」を進んでいく。技を磨き、学問を磨いていく。それで初めて上達がある。これが道理である。
 「仏法は道理」であり、仏道修行も同じく、耐えて進んだ人が勝つ。
 これからも、さまざまな波があるにちがいない。何があろうと、我が学会は、平然として、生き抜き、勝ち抜き、永遠に「この道」を堂々と歩んでまいりたい。(拍手)
3  「幸福は相続できぬ、自分で創るもの」
 牧口先生が″最も感銘した″と言われた言葉がある。
 『創価教育学体系』のなかで、スウェーデンの化学者であり、ノーベル賞の設立者ノーベル(一八三三〜九六年)のある言葉を引いて、「余の一生中にこれ程力強き適切なる教訓を、言語の上で受けた事がない」(『牧口常三郎全集』第五巻。引用は以下同じ)と言われた。いわば仏法以外に「一生でいちばん共感した言葉」という意味である。
 その言葉とは、「遺産は相続することが出来るが、幸福は相続する事は出来ぬ」であった。
 事実、財産を相続したために堕落したり、悪人や愚かな人間となって不幸を招く場合も多い。
 牧口先生は、この言葉を「幸福と財産との不一致を喝破して余蘊(余り)ない」とたたえられた。″金持ちイコール幸福″ではない、と。
 そして、これを知れば、互いに憎み合う階級闘争もなくなるであろう、と論じられている。
 すなわち、いわゆる資本主義の立場も、社会主義の立場も、「物質的満足」に幸福をみている点では同じであるとし、その共通の誤りを指摘されたのである。
 この点、牧口先生は思想的に、後の冷戦構造をも、すでに超越しておられた。
 幸福は相続できない。「幸福」は、だれからも与えられない。だれも与えることはできない。いわんや日顕宗の僧らが、幸福を与えられるわけがない。
 「幸福」は、自分自身が「創造」する以外にない。自分自身の正しき信行で勝ち取る以外にない。これが仏法である。これが牧口先生の信条であった。

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