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日蓮大聖人・池田大作

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関西広布功労者の第1回懇親会 「励まし」が人を変える、自分を変える

1993.11.28 スピーチ(1993.6〜)(池田大作全集第83巻)

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1  東北の幸を祈る
 広布功労者の集い、おめでとう。関西の大発展をお祝い申し上げるとともに、今年は東北へ行くつもりで行けなかったので、ここ関西の地より、東北の皆さまに、ごあいさつ申し上げるつもりで、少々、語っておきたい。
 ご存じの通り、今年は異常気象のため、全国的に不作であった。また不況も続いている。
 とくに今、東北地方の皆さまは、大変、深刻な状況の中で懸命に頑張っておられる。
 きのう二十七日は宮城県を震源地とする地震もあった。これから雪の厳しい季節にもなる。私は東北の皆さまのことを毎日、真剣に祈り、題目を送っている。また創価家族として、私たちは心から励ましの題目を送っていきたい。
2  政宗の少年時代──自身をもたせた一言が英雄を生んだ
 宮城県の青年部の皆さんが、戦国時代の武将・伊達政宗の幼少時代について調べてくださった。若き知性への御礼を込めて、一部を紹介させていただきたい。
 伊達政宗は言うまでもなく、戦国時代、東北を舞台に大国を築いた武将である。半面、和歌や茶道もたしなみ、教養も豊かであった。また、メキシコやスペイン、ローマとの交流を図るなどスケールの大きな人物としても知られる。
 しかし、幼少のころの政宗は、卑屈で内気な少年であったという。
 彼は幼い時に天然痘を患った。それが原因であろうか、右目が見えなくなってしまう。このため、のちに「独眼竜」と呼ばれた。
 また、病気の跡が顔に残ってしまった。そのことを気にするあまり、政宗少年は人前に出ることを嫌がり、次第に引っ込み思案の性格になっていった。
 そのため、家臣たちの中には、政宗のことを「大将の器量なし」と見限る者も多かった──こういう説がある。
3  一方、彼の弟は、容姿端麗で社交的、家臣との対応も堂々たるものであったという。
 多くの家臣たちは、むしろ、この弟の機嫌をうかがい、実の母親でさえも、弟のほうに、将来の期待をかけていたともいわれる。
 常に弟と比べられて、政宗少年は、ますます卑屈になっていく。
 ──子供は敏感である。他の子供と比較するのは、かわいそうである。また愚かである。
 桜は桜、梅は梅である。その子らしく伸びていけるように、慈愛の太陽の光を注いでいきたいものである。

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