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日蓮大聖人・池田大作

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関西最高会議 六万恒河沙の地涌の菩薩とは創価学会

1993.11.26 スピーチ(1993.6〜)(池田大作全集第83巻)

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1  「六万」は菩薩の一切の修行を備える
 関西が盤石ならば、創価学会は盤石である。創価学会が盤石ならば、人類の未来は盤石である。
 ゆえに関西こそ要である。関西が大切なのである。関西に私が力を注ぎ、期待する理由も、そこにある。
 法華経は″ドラマの経典″と言われる。その名の通り、多くの劇的なシーン(場面)が展開されている。
 その一つが涌出品第十五の冒頭シーンである。そこでは、地涌の菩薩が、「六万恒河沙ごうがしゃ」という、計算も譬喩ひゆも及ばないほど多数、大地から同時に出現した。しかも、それぞれの菩薩がまた無数の眷属けんぞくを引き連れていた──壮大な光景である。
 「恒河沙」とは、インドの長大なガンジス川(恒河)の砂のこと。つまり、数え切れないほどの膨大な数を意味する。そのさらに六万倍の数が「六万恒河沙」である。
2  では、なぜ「六万」なのか。どんな意義があるのか──。後世の注釈家で、「六万」の意義を示している人は少ない。多くは「六万恒河沙」を″膨大な数″と注釈するにとどまっている。
 その中で、わずかに中国の嘉祥大師かじょうだいし(吉蔵)が「六趣ろくしゅ」を越えていることを表すと述べ(『法華義疏ほっけぎしょ』)、天台大師が「六は即ち六度なり」(『法華文句』)と述べている。
 「六趣」は「六道」と同じ意味で、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の境涯である。「六趣を越えている」とは、「六道輪廻を乗り越えている」ことである。
 「六度」とは「六波羅蜜」のことで、菩薩が悟りに至るための六種の修行である。
 布施ふせ(ほどこす)・持戒じかい(戒をたもつ)・忍辱にんにく(耐え忍ぶ)・精進しょうじん(全力で修行する)・禅定ぜんじょう(心を定める)・智慧ちえ(真実を正しく見極める智慧を得る)の六つである。天台は、この六波羅蜜に百界千如ひゃっかいせんにょが具し、さらに十善(不殺生ふせっしょうなどの十の善道)が具して、六万の数になると述べている。
 (『法華文句』に「六は即ち六度(六波羅蜜)なり、一一いちいちの度に十法界じっぽうかいを具す、一一の界に各々十有り、十は即ち百有り、百は即ち千を具す、十善なれば即ち万有り、一度に万を具すれば、六度は即ち六万の法門なり」とある)
 要するに、「六万」とは、菩薩としての一切の修行を具足していることを意味する、と。
 インドでは「六」という数字に「具足」の意義がある。この点については、大聖人も「開目抄」「観心本尊抄」で指摘されている。
 (「胡法こほう(インドの法)に<は>六を以て具足の義と為すなり」<『無依無得大乗四論玄義記』>の文を引用されている)
 そして「六とは六度万行」であるとされ、菩薩の万行万善は、妙法華経の五字に具足していると述べられている。
 六万恒河沙の地涌の菩薩とは、釈尊滅後、末法に妙法蓮華経を受持し、弘通する菩薩である。その妙法流布の行動に、菩薩としての一切の修行が備わっているのである。
3  信心なき日顕宗は「六万」と無縁
 日顕宗には、″法主信仰″があるのみで、御本尊根本の信心がない。真剣な広宣流布への実践もない。すなわち、妙法五字の受持も、弘通もないのである。
 ゆえに、こんな日顕宗に連なる者が、六万恒河沙の地涌の菩薩に入るはずがない。反対に、僣聖増上慢せんしょうぞうじょうまん(法華経の行者を迫害する三類の強敵のうち最もたちの悪い高位の聖職者)の日顕を先頭に、地涌の菩薩を迫害する謗法集団なのである。
 こんな日顕宗が、いま六万恒河沙の名を詐称して、六万総登山とか新六万塔の建立などと大騒ぎしている。しかし、いつものように、単なる語呂あわせの日顕の魔術にすぎない。
 これこそ「僣聖」である。すなわち聖なる地涌の菩薩でもないのに、地涌の菩薩の名を、かたっている(僣称している)からである。

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