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日蓮大聖人・池田大作

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カナダSGIのモントリオール総会 「聡明」即「幸福」の人生

1993.9.28 スピーチ(1993.6〜)(池田大作全集第83巻)

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1  「聡明に生きよ」──知恵を磨くのが信心
 素晴らしい合唱ありがとう! 感動しました。
 美しいモントリオールに来てから、私は写真も撮りました。詩も浮かびました。そして、おいしい空気も、ただで、いっぱい吸わせていただきました。こんないい空気を吸っていれば、皆さんの頭脳がすっきりと聡明であることも当然だとわかりました。
 きょう、はじめに申し上げたいのは「聡明に生きていただきたい」ということである。
 合唱で歌われた曲目は「歓喜の日々」と「希望の天地」(カナダの愛唱歌)。とてもよい歌である。ただ、現実の人生は「歓喜の日々」ばかりというわけにはいかない。むしろ苦しい、悲しい、いやなことが多いのが人生である。「希望の天地」といっても、現実社会は苦しい戦いの連続である。
 現に、この二曲を歌われる奥さま方を見て、夫の皆さんは、「ああ、うちにいるときも、こんな笑顔で迎えてくれたらなぁ」、「いつも、こんな歓喜の声なら、どんなにか我が家は平和で安穏だろうか」と思われたのではないだろうか。
 現実は、うちに帰るやいなや、「遅かったわね!」。「どこを歩き回ってたの!」。「服がよごれてるわよ。不景気で、クリーニング代もばかにならないんだから、気をつけてよ!」──叱られて、ぐったりしていると「早く勤行しなさい!」。
 実は、そういう″がみがみ声″も、高い境涯に立てば、ベートーヴェンの名曲に聞こえる。そうなっていただきたい。
 自分自身の「境涯」を開き、すべてを良い方向に、楽しい方向にとらえていける「知恵」を磨く。この聡明な人生が、信仰者の人生なのである。
2  人生は、思うようにいかない場合が多い。どうして、こんな人と結婚しちゃったのかな。どうして、こんな両親のもとに生まれてきたのかな。どうして、こんな、できの悪い子供が生まれたのかな。どうして、こんな会社に入ってしまったのかな──。
 そうしたすべての悩みを、「煩悩即菩提」の法理で、全部、幸福に変えていく、喜びに変えていく。それが「信心」の力である。
 「信心」とは「以信代慧いしんだいえ(信を以って慧に代う)」と説かれるように、最高の「知恵」の働きをする。信心が強ければ強いほど、豊かな知恵の振る舞いになっていく。それが本当の信仰者である。
 ″いつも拝んではいるが、愚かなことばかりやっている″──これでは正しい信仰とはいえない。幸福への知恵が出なければならない。どうすれば一番幸福になれるか、それを自分自身でわかってくるのが、信心の力である。
 知識と知恵は違う。知識があるから幸福とは限らない。一流大学を出ても、不幸な人は、いくらでもいる。
 知恵とは、生活の上で、人生の上で、事実の上で、「幸福」へと自分を導き、一家を導き、人々を導いていく力である。
 この「知恵」の源泉が「信心」なのである。
3  すべてを楽しみ、すべてを幸福に変える大境涯
 幸福といっても、大きい家に住むのが幸福とは限らない。相続税が大変な国もあるし、強盗の心配もある。第一、掃除が大変である。
 「私のうちは小さいけど、すぐに掃除が終わっていいわ」、「あの庭は広くて素晴らしいけれども、風の日には落ち葉で大変でしょう」。
 「強盗にねらわれる心配もないし、やっぱり我が家がちょうどいいわ」。たとえば、こう、とらえていけば楽しい。これも知恵である。
 お金があって、美食しすぎて病気に苦しむ人もいる。幸福は財産で決まるのではなく、知恵で決まる。
 もちろん、私は皆さまに裕福になっていただきたい。そのことをいつも祈っている。
 そのうえで、今はお金がなくても、そのほうがいい場合もある。早くから、苦労しないでお金を持つと堕落してしまう。心が腐敗し、人のために献身することができなくなってしまう。また傲慢になり、濁ってしまう。そうなる場合が多い。
 それよりは、清らかな水がほとばしるような信心と人生を生きたほうが、どんなによいかわからない。
 いやな幹部がいても、「今世は、いばらせてあげよう」、「私は福運を積んで、来世は大統領になるからいい」。そのように大きく包容してあげて、楽しく、朗らかに生きたほうが得である。
 幹部の執拗な追及も、時には、うまくかわしながら、悠々と、自分自身の信心即生活、生活即信心をエンジョイしていける人が賢者である。

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