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群馬多宝研修道場開所記念勤行会 世界の同志の「健康の王宮」

1993.8.13 スピーチ(1993.6〜)(池田大作全集第83巻)

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1  「健康」のために「行動」を
 ″多宝研修道場″のオープン、本当におめでとう。
 きわめて短期間の準備にもかかわらず、皆さまの真剣な唱題と真心の労作業で、学会家族の王宮おうぐうを見事に荘厳していただいた。心から感謝申し上げたい。
 ここ多宝研修道場を擁する北毛ほくもう圏は、群馬全県の約半分(五二%)という広大な地域を占め、しかも、その大半は山々におおわれている。
 たった一人の友のために、往復一時間以上もかけて、山あいの村に聖教新聞を届けてくださる方。また雪深い冬には、バイクや自転車も使えず、長い道のりを歩いて友の激励に通ってくださる方もおられる。
 厳しい環境の中でも、皆さまは地道に、そして堅実に、信心の戦いを貫いてこられた。なかでも、ここ草津は、見事な広布拡大の歴史を刻み、地域に友好と信頼の輪を大きく広げておられる。
 こうした、地方の苦労に比べれば、東京はじめ大都市は恵まれている。恵まれた環境に甘えて、自分自身の鍛えを忘れたならば、自分が損である。
 また、群馬の皆さまは、この夏の研修道場のオープンを目指して、聖教新聞の購読推進など、すべてに見事な実証を示された。広布につながる活動はすべて永遠の功徳となる。心から皆さまの奮闘をたたえたい。
2  この研修道場は「多宝」という名前が冠せられているように、とくに広布の先駆者、功労者の皆さまのためのものである。
 群馬でも多宝会(指導部)の皆さまが、喜々として組織の第一線で汗を流し、″生涯青春″の模範の姿を示してくださっていることは、喜ばしいかぎりである。私はうれしい。
 九月からは、まず群馬県下の「多宝会」「守る会」の方々の研修会が始まる。来年四月以降は、全国の同志を迎えての研修会が開始される予定である。
 また、研修会以外で、日常的には地元・吾妻あがつま本部の中心会場として、使っていただくことになっている。これから、この「多宝の王宮」「健康の宮殿」には、日本全国、また世界中から多くの同志が集ってくることであろう。群馬の皆さまには、お世話になると思うが、どうかよろしくお願い申し上げたい。
3  草津は古き歴史の町
 さて、ここ草津の歴史は古い。伝説では、日本武尊ヤマトタケルノミコトが発見したと伝えられる。湯を浴びたところ、疲れがたちまちに吹き飛び、目のさめるような、さっぱりとした心地になったという。
 また、奈良時代の僧・行基ぎょうきによるなど、その他の説もある。
 さらに、ちょうど八百年前の一一九三年八月、源頼朝が草津の地を訪れ、温泉を発見したともいわれる。
 浅間山のふもとの三原で狩りを行った頼朝は、草津の入り口までやってきた。すると、あたり一面に硫黄のにおいがたちこめ、地面から白い煙がのぼっているのが見えた。さっそく、草を刈り、そこを掘らせると、見事な温泉が湧き出したという。このとき、草を刈って、うるおい出た所なので「草津」と呼ばれるようになったという説もある。
 一般的には、硫黄のにおいが強いため、「臭水くさみず」と呼ばれ、それがなまって「草津」になったとされる。
 中世においては、「九相津くそうづ」「草生津くそうづ」「九草津くそうづ」「九佐津くさづ」などと呼ばれ、ほぼ江戸時代より「草津」に定着したという。
 時代がくだるにつれ、草津の存在は全国に知られるようになった。戦国時代には、傷の治療や疲労をいやすために多くの武将が訪れている。一時期、草津は、武田信玄の領地にもなった。また、豊臣秀吉も、はるばる大阪から草津を訪れたいと希望した。
 さらに江戸時代になると、将軍の御用温泉の一つとされ、八代将軍・徳川吉宗は、草津の湯を遠く江戸城まで運ばせたという。
 江戸中期には、全国の温泉をランクづけた温泉番付表が発表されるようになった。それによると、草津は常にトップの東の大関に選ばれている(当時、相撲の番付には横綱はなかった)。
 全国から注目されるようになった当時の草津の繁栄の様子は「草津千軒せんげん江戸がまえ」とうたわれ、多くの家々が建ち並び、まるで江戸のようににぎわった。

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