Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第二回九州最高会議 学会員は″霊山会″

1993.5.23 スピーチ(1993.1〜)(池田大作全集第82巻)

前後
1  魏の勝利は「民衆即戦士」ゆえの強さ
 九州は、素晴らしく発展した。いい九州になってきた。
 歴史的にも日本の新文明のあけぼのは九州から始まった。″原点″は九州であった。
 その意味で、これから九州は、アジアの諸国とつながって、学び合い、触発しながら、二十一世紀の「繁栄するアジア」をリードしていっていただきたい。アジアの人々を心から尊敬することが友好の根本である。人を尊敬できる人は、人からも尊敬される。
2  さて邪馬台国やまたいこく(邪馬壹国)の女王・卑弥呼あるいは「ひみか」がどこに住んでいたか、それはまだわからない。わかっているのは、彼女が親しくしていたのは中国の「魏」の国だったということである。
 「三国志」で有名な「魏」の曹操そうそう、「呉」の孫権そんけん、「蜀」の劉備玄徳りゅうびげんとく諸孔明しょかつこうめい……。『三国志演義』では孔明らの「蜀」が中心だが、実際に天下をとったのは「魏」の曹操である。
 卑弥呼は、この大国「魏」と結び「親魏倭王わおう(魏に親しむ倭国の王)」との金印をもらっている(二三九年)。「王」のあかしとしての黄金の印である(実物は未発見)。蜀の孔明が魏の軍と戦い、五丈原ごじょうげんに死してから五年後のことである。
3  ところで「魏」の曹操は乱世にあって、どうして天下をとれたのか。
 理由を二つだけ挙げると、一つは、「経済の基盤をしっかりつくった」ことである。
 彼は、兵隊がそのまま農民として耕作する「屯田制とんでんせい」をつくった。
 それまで兵隊は、簡単に言うと、農民のつくった作物を奪うだけで、奪うものがなくなると移動するしかなかった。いつも農民に恨まれ、しかも土台が安定していない。
 曹操は、「兵士」即「農民」の制度をつくって、経済の土台を安定させた。また戦乱で流民となっていた農民に土地を貸し、定住して働けるようにした。こうして、民衆の安心をかち得ていった。これが勝利の第一の因といえよう。次元は違うが、学会も、普通の社会人が即、広布の戦士となって働いている。自分の職場、家庭を最大に大切にしながら、正法を証明し、弘め、社会に貢献している。「民衆」が即「リーダー」である。分離されていない。ここに強みがある。
 皆が一体となって知恵を出し、最も価値的な働きをしていく。ここに勝利が生まれる。

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