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日蓮大聖人・池田大作

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「4・2」記念各部代表懇談会 御本尊を「わが胸中」に

1993.4.3 スピーチ(1993.1〜)(池田大作全集第82巻)

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1  つねに恩師とともの広布旅
 ここ大田の文化会館から見える多摩川堤の桜並木が、今年も見事に花開いた。
 爛漫の桜花に包まれた「4・2」──恩師戸田城聖先生の祥月命日。この記念日を、SGI(創価学会インタナショナル)の全同志とともに、隆々たる世界広宣流布の発展のなかで迎えることができた。
 「よく、やったな」と、だれよりも喜んでくださっているのが戸田先生であると確信する。
 「さまざまの事おもひ出す桜かな」(芭蕉)と、うたわれたように、「桜」の季節になると、恩師のさまざまな思い出が、鮮やかによみがえる。
 戸田先生も、大変に桜がお好きであった。何かにつけて「桜の咲くころに」「桜の道を歩いて」等と語っておられた。私も桜が大好きである。
 人々の心を春の幸福の薫りでいっぱいに満たし、潔く、また荘厳に散りゆく万朶の桜──その姿は一幅の絵のように、偉大な恩師の生涯と重なり合う。
 今回の北・南米訪問の際にも、いつものように、私は、戸田先生のお写真を携えていった。私の世界広布の旅は、常に戸田先生とともにある。恩師の偉大さを、どこまでも世界に示し切っていく。未来へ伝え遺していく。これ以外に、私の人生はない。
 きょうは「4・2」を記念して、戸田先生の指導を通し、日蓮大聖人の仏法の真髄、永遠不変の学会精神を語っておきたい。
2  恩師が教えた大聖人の仏法の神髄
 どんな宗教も「本尊」が一番大切である。それでは、日蓮大聖人の仏法における「本尊」の本義はどこにあるのか。
 大聖人御自身が、こう仰せである。
 「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」──この御本尊は、まったく、よそに求めてはならない。ただ、我々衆生が、法華経を持って南無妙法蓮華経と唱える胸中の肉団にいらっしゃるのである──。
 この御文を拝して、戸田先生は、このように講義された。
 「大御本尊様は向こうにあると思って拝んでおりますが、じつはあの三大秘法の御本尊様を、即南無妙法蓮華経と唱え、信じたてまつるところのわれらの命のなかにお住みになっていらっしゃるのです。これはありがたい仰せです。
 この信心をしない者は、仏性がかすかにあるようにみえてひとつも働かない、理即の凡夫です。われわれは御本尊を拝んだのですから、名字即の位です。名字即の位になりますと、もうこのなかに赫々として御本尊様が光っているのです。
 ただし光り方は信心の厚薄による。電球と同じです。大きい電球は光るし、小さい電球はうすい。さらにこの電球の例でいえば、信心しない者は電球が線につながっていないようなもので、われわれは信心したから大御本尊という電灯がついている。
 ですから、われわれの命はこうこうと輝いている。だから顔の色つやもよくなるのです。信心して青い顔をしている者は、信心したといってもほんとうにしていない。インチキなのです」
 「桜色にパッとしていなければならない。いくら年をとっていても青年のような顔色、そう思うと私もうれしい」
 信心が強いかどうかである。信心が強ければ、自分自身が功徳聚くどくじゅ(功徳の集まり)となっていく。大聖人は御本尊のことを「功徳聚」と仰せである。そして「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」──この御本尊も只信心の二字に収まっているのである──と。
 ゆえに信心強き人は、絶対に行き詰まらない。何が起ころうと、すべてを功徳に変えていける。幸福に変えていける。もちろん長い人生には、さまざまなことがある。悩み、苦しみがある。しかし、それらを全部、自分自身の境涯を開く糧とできる。 その意味で、信仰者にとって、根底は、一切が功徳であり、幸福なのである。信心強き人に、「不幸」の二字はない。
3  日寛上人は「観心本尊抄文段」の末尾に、こう述べられている。
 「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、わが身即ち一念三千の本尊、蓮祖れんそ聖人なり。『幼稚の頸に懸けさしめ』の意、正しく此に在り。故に唯仏力・法力を仰ぎ、応に信力・行力を励むべし。一生空しく過して万劫悔ゆることなかれ」(文段集五四八㌻)──我らが、この本尊を信受して、南無妙法蓮華経と唱え申し上げていくならば、わが身が、そのまま一念三千の本尊であり、蓮祖聖人(日蓮大聖人)なのである。「(仏法に無知な末法の)幼稚の頸に懸けさしめ」との(観心本尊抄の)御文の元意は、まさにここにある。ゆえに、ただ仏力・法力を仰いで、信力・行力を励むべきである。一生を空しく過ごして、永遠の悔いを残してはならない──。
 御本尊への「信心」によって、わが身が即「本尊」と顕れ、「蓮祖聖人」(日蓮大聖人)と顕れると明言しておられる。そうなれるために、大聖人は御本尊を顕してくださったのである。ここに、大聖人の仏法の極理がある。

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