Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第一回SGI世界青年部総会 青年よ「知恵」と「正義」の大樹に

1992.9.9 スピーチ(1992.6〜)(池田大作全集第81巻)

前後
1  「最高の法」を持った人は「国師」=社会のリーダー
 連日の研修、本当にご苦労さま。
 日蓮大聖人は、きょう「九月九日」について、秋元殿御返事に五節供せっくの意義を釈されて「九月九日は経の一字のまつり」とあるように、妙法蓮華経の「経」の祭りの日であると仰せである。
 きょうは、まず皆さまと、ともに勤行を行いたい。そして、若き偉大なリーダーの健康、無事故、長寿、福徳、成長を真剣に祈念申し上げたい。
2  仏法は、この世を「堪忍かんにん世界」、すなわち″苦しみを堪え忍ぶ″世界であると説いている。その、苦悩多き人生にあって、何があろうと、粘り強く勤行に挑戦し、唱題し抜いていく。その「信心」が、どれほど素晴らしいか。形式ではない。心である。確信である。
 大聖人は「ただ心こそ大切なれ」と教えてくださっている。強き不退の信心の「心」があれば、必ず幸福の軌道へ、勝利の軌道へ入っていけることを確信していただきたい。
 大聖人の仏法は、世界最高の大哲学である。全人類を幸福にする。その大法を持った人も、また世界最高の「哲人」となり「指導者」となる。
 総じては、その人は「国師」すなわち社会を根底的に幸福へと導くリーダーとなる。じつは諸君は、すでに世界的指導者なのである。その「誇り」で進んでいただきたい。
3  仏とは最高の「人間」である。決して「人間」以上の存在なのではない。その意味で、自分を、ありのままの「人間」以上に見せようとするのは、仏法ではない。
 御本仏・日蓮大聖人は、「人間」そのもの、「凡夫」そのものの御振る舞いであられた。だからこそ偉大なのである。釈尊も人間そのものであった。だからこそ偉いのである。
 大聖人は、弘安元年(一二七八年)、身延の山で、「今年は異常に寒い」とおっしゃり、土地の古老たちにたずねてみたら、八十、九十、百歳になる老人も「昔から、これほど寒いことはありません」と言っていたと書かれている。
 山の中の庶民と、何のへだてもなく「寒いね」「こんなことは、いまだかつてありません」と、和やかに語らっておられる。これが御本仏の世界であられる。
 晩年、おなかをこわされた時も、体の調子が悪いよと、ありのままに門下に告げられている。どこまでも、凡夫としての御振る舞いであられた。
 釈尊も旅から旅への布教の人生の最後に、ある村(ベールヴァ村)で病気になり、侍者の阿難に、私の体も、もうボロボロなんだよと告げている。ありのままの「人間」の姿であり、行動であった。
 (釈尊の「最後の旅」での病気に際して。「わが齢は八十となった。譬えば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いて行くように、恐らくわたしの身体も革紐の助けによってもっているのだ」<『ブッダ最後の旅──大パリニッバーナ経──』中村元訳、岩波文庫>)
 仏というと、何か特別の金ピカに光る絶対者のようなイメージが広められているが、それは後世の人が、仏の偉大さを強調するなかで、つくられていった表現であり、ひとつの象徴といえよう。
 ゆえに仏法者は、「偉大なる凡夫」を目指して生きていくことが正しい。神秘めかして自分を特別な存在のように見せかけるのは、そのこと自体、にせ者の証拠なのである。
 いわんや出家の身で妻帯していながら、どんなに自分を偉く見せようと、いばってみても、むなしい。妻帯の事実そのものが、大聖人、日興上人の仰せに真っ向から違背しているからだ。

1
1