Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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記念北イタリア代表幹部会 自分自身が妙法の当体、幸福の当体

1992.7.3 スピーチ(1992.6〜)(池田大作全集第81巻)

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1  <質問会>SGIは永遠に「御本尊根本」「御書根本」
 十一年ぶりに、ミラノにこられて、本当にうれしい。
 私たちは皆、″家族″だから、皆さん、ゆったりと、リラックスしていただきたい。きょうは、予定していたスピーチをやめて、何でも聞きたいことを聞いてもらい、語り合う「質問会」にしたいと思う。どうだろうか。
 時間の関係上、代表のみとなってしまうが、それ以外の方も何か汲み取っていただきたいし、いつでも納得できるまで先輩の幹部の方に聞いていただきたい。
2  悪法主を批判してもいいか
 <以前、「法主を批判してはいけない」という指導を読んだことがあります。一方、日興上人は「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」──時の管長(法主)であったとしても、仏法に相違して、自分勝手な義を言い出したなら、これを用いてはならないこと──と明確に言われています。どんなときに批判してよくて、どんなときに悪いのか、何を基準にすればよいのでしょうか。>
 法主とは、本来、日蓮大聖人の正しき御使い(「遣使還告けんしげんごう」)なのです。大聖人の教え、御精神を、だれよりも正しく伝え、教え、実践しているべき存在です。
 そうである限り、その正しき法主には従っていくことが正しいといえるでしょう。
 しかし、明らかに日蓮大聖人の教えを否定し、「大聖人よりも現法主が偉い」とか、「御書よりも法主に従え」とか、自分のわがままをきかないと大御本尊を拝ませないとか、それではもはや、正しき法主とはいえるはずがない。
 立場が上であるだけに、小さな過ちでも大謗法になる。いわんや、御本仏に反逆し、世界の信徒を苦しめ、広宣流布を破壊しようという大罪を犯した法主に従うことは、自分も重罪に通じてしまう。
 ご指摘の通り、日興上人は将来、悪い法主が出現することを予見しておられたのかもしれません。基準は、どこまでも日蓮大聖人です。すなわち「御本尊」と「御書」が根本です。SGIは、過去も、現在も、未来も、永遠に「御本尊根本」「御書根本」の正道を行くのです。
 私たちは、日蓮大聖人の信徒であり、謗法の法主の信徒ではない。だれが何を策動しようと、広布への「信心」で結ばれた大聖人と私たちの絆を切ることなど絶対にできません。「大聖人の信徒」を苦しめようとすればするほど、その人間自身が、だれびとであれ、「大聖人の仏敵」になっていくことは間違いありません。
 大聖人の願いは「世界広宣流布」であられるのに、今の法主は、それを邪魔しようとしている。大聖人の願いは「全民衆の幸福」であられるのに、今の法主は信徒である民衆をいじめ、見くだし、苦しめている。この事実を見ただけで、本質は明らかでしょう。
 時間の関係上、くわしいことは略しますが、「真実」を探究すればするほど、SGIの正しさは絶対に納得できるはずです。
3  題目は、質と量のどちらが大切か
 <よく婦人部で話し合うのですが、お題目は、″あげる姿勢″と、″あげる数″と、一体、どちらが大切なのでしょうか。質と量と言いますか……>
 十万リラ(イタリアの通貨)のお札は、一万リラのお札よりも、質が高い。十万リラ札のほうがよいのは当然です。真剣な、確信ある唱題が大事です。そのうえで、十万リラ札を、数多く持っていれば、一番いいわけです。質も、量も、両方、大事なのです。
 また、仏法では感応かんのうが大切です。たとえば電話は感度がよければ、小さな声で「もしもし……」と、ささやいても通じる。叫ぶような声で「もしもし! もしもし!」とやっても通じない場合もある。祈りが通じるには、ありのままの自分で、子供が「お母さーん」と親に抱きついていくような気持ちで、ぶつかっていくことです。
 御書には「夫信心と申すは別にはこれなく候」──そもそも信心というのは、特別なものではない──と仰せです。ありのままの自分で、よいのです。
 大聖人は続けて「妻のをとこをおしむが如くをとこの妻に命をすつるが如く、親の子をすてざるが如く・子の母にはなれざるが如くに、法華経釈迦多宝・十方の諸仏菩薩・諸天善神等に信を入れ奉りて南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを信心とは申し候なり」──妻が夫を大切にするように、夫が妻のために命を捨てるように、親が子を捨てないように、子供が母から離れないように、法華経と釈迦仏、多宝如来、十方の諸仏菩薩、諸天善神等を信じ奉りて、南無妙法蓮華経と唱え奉るのを、信心というのである──と仰せです。
 無作むさというか、苦しければ苦しいままに、悲しければ悲しいままに、時にはだだっ子がお小遣こづかいをねだるように、思った通りに祈っていくことです。
 御本尊は親で、私たちは子供ですから、かわいい子供にしつこく言われて、お小遣いをまったくあげないような親はいないでしょう。
 ただし、少しは″良い子″にならないといけない。親(大聖人)の言うことをよく聞いて、その指導通りに成長していけば、最後には祈りは絶対に叶います。
 大聖人の願いは、私どもの幸福なのだから、その大聖人の御生命にふれ、つながっていって、幸福になれないはずがない。大聖人のお使いとして広宣流布のために働いた人を、大聖人が守ってくださらないはずがありません。
 どこまでも自分のための信心です。唱題も「自分が満足する」ということが大切です。決して、何遍やらなければいけないとか、形式ではない。目標を立てることは意味があるが、疲れているときとか、眠いときとか、心もうつろに惰性で口を動かしているだけ──それよりも早く休んで、はつらつとした心身で行うほうが、価値的な場合がある。
 自分が、ああ、すっきりしたと満足することが一番です。その毎日毎日の積み重ねが、自然のうちに、「所願満足」の人生を開いていくのです。

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