Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第二十二回全国婦人部幹部会 「希望」の春は「信念」の太陽とともに

1992.4.17 スピーチ(1992.1〜)(池田大作全集第80巻)

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1  学会は民衆の「常楽の家」
 春うららかな、きょうの婦人部幹部会。心も軽く、楽しくやりましょう!
 ある年の四月──日蓮大聖人は、身延から遠く離れた佐渡の女性信徒・国府尼こうあまに、こう励ましを送っておられる。この方はあるいは、今でいえば学会の指導部、多宝会の皆さまのような存在であったかもしれない。
 「又国も・へだたり年月もかさなり候へば・たゆむ御心もやとうたがい候に・いよいよ・いろをあらわしこうをつませ給う事・但一生二生の事にはあらざるか
 ──また(身延と佐渡は)国も遠くへだたり、(私<大聖人>が佐渡を離れて一年あまりたち)年月も重なっているので、たゆむ心もあるのではないかと心配しておりましたが、(あなたが)いよいよ強盛ごうじょうな信心の姿をあらわし、功徳を積まれていることは、ただ一生、二生だけの浅い縁ではないのでしょう──。
 これは、夫の国府入道が身延の大聖人のもとへ訪れたことに対し、夫を送り出した国府尼の信心をたたえられたお言葉である。
 このように大聖人は、表に現れた人の行動のみならず、それを陰で支え、見えないところで心を尽くす人のことを、決して見のがされない。あたたかく守ってくださっている。真実の「仏」であられる。そして今世だけとか、前世からというだけの浅い関係ではない。もっと長い、深い、えにしなのですよ、と。
 また、お手紙では、夫妻に「蒙古が攻めてきたら、この身延へ避難しておいでなさい」「お二人には子供もないことであるから、年をとった末には、こちらへ移ることをお考えなさい」と、温かなお心づかいを述べられている。
 今、私どもも何があっても正法流布に進む。大聖人と久遠以来の不思議な縁の門下なのである。
2  大聖人は結論として次のように結ばれている。
 「いづくも定めなし、仏になる事こそつゐすみかにては候いしと・をもひ切らせ給うべし」──どの地も永久のものではない。仏になることこそ、最終のすみかであると、心を決めていかれることです──と。
 何が人間の究極の「安穏あんのんの家」なのか。それは「仏の大境界」であるとの仰せである。
 「家」といえば、あのマンションに住みたい、有名なリゾート地に別荘を持ちたい、あるいは日本よりアメリカがいい、フランスがいい……等々。もちろん、そうした夢や目標をもつことは自由であるし、少しも悪いことではない。しかし、好きな土地に移ることが、立派な家に住むことが、それだけで「絶対の幸福」を保証してくれるわけではない。輝くような家の中で、ののしりあって暮らしている人もいる。
 三世の生命から見れば、幸福の家を自身の外に求めることは″まぼろし″のごとくはかない。
 では、永遠にくずれざる最極さいごくの「すみか」とは何か。大聖人は明快に示された──それは「成仏」であり、正法によって自身の生命に築きゆく「仏の大境界」である、と。その「多宝の家」の光、歓喜の声は、全宇宙へと広がっていく。永遠に「安心」であり「満足」の家である。
3  たとえば、野の鳥も、小枝を一つまた一つと粘り強く運んで巣をつくる。私どもの日々の仏道修行も、自身の住む「幸福の家」をつくるための地道で忍耐強い積み重ねである。途中で手を抜いたり、やめてしまえば、雨漏あまもりのするような中途半端な「家」しかできない。
 大聖人が「すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」──少しでもたゆむ心があれば、魔が(そのすきに)乗じるであろう──と戒めておられる通り、「たゆまぬ心」「たゆまぬ行動」が大切なのである。
 また、広げていえば、大聖人直結の信心で、民衆が「成仏」へ進みゆく我が創価学会こそ、福徳あふれる「仏子ぶっしのすみか」であり、永遠の「宝の家」であると確信する。これほど尊い世界はない。堅固けんごな安心の城、常楽の城はない。
 その学会を迫害し、壊そうとする人間は、″成仏の破壊者″であり、″仏法の破壊者″である。また地涌の菩薩が営々として築いてきた、民衆の「宝の家」の宝を、何の苦労もなく盗み取る人間は、仏法上の″泥棒″である。御本仏の敵である。

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