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日蓮大聖人・池田大作

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「3・16」記念代表者会議 「3.16」は永遠の出発の日

1992.3.15 スピーチ(1992.1〜)(池田大作全集第80巻)

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1  希望あるかぎり、人生は若く楽しい
 あすは3・16「広宣流布記念の日」。″3・16″は、師から弟子への「継承」の日であり、「後継」の弟子が立ち上がる日である。
 その意味で、この日は、永遠の「出発」の日であると私は言いたい。いわば広宣流布への本因の決意に立ち返り、心を合わせて、新たにスタートしていく。高まる春の足音とともに、広布も、そして人生も、「いよいよ、これからだ」と、大空を仰いで前へ進む──″3・16″は、永遠の「始まり」の日であり、永遠の「希望」の日である。
 (「3・16」とは──昭和三十三年(一九五八年)三月十六日、学会が寄進し、落慶したばかりの大講堂で、″広布の模擬試験″と呼ばれた式典が行われた日。半月後の四月二日に逝去せいきょした戸田第二代会長が、青年部なかんずく池田名誉会長(当時、参謀室長)に一切の後事をたくした)
2  希望あるかぎり、人は伸びる。「希望」あるかぎり、人は若く、人生は楽しい。健康にもなる。知恵もわく。喜びがあるゆえに、福運もついてくる。
 一昨日、昨日(三月十三、十四日)と、エジプトのホスニ文化大臣にお会いした。アレクサンドリア生まれの大臣に、私は、ゆかりのアレキサンダー大王と「希望」のエピソードを話した。
 臣下にすべての財宝を与えた大王は、「一体、大王は何の宝を持っていくのか」と問われて、「ただ、希望を!」と答えた。この有名な話について、文化大臣は「大王は『アレキサンダーを持って旅立つ』『自分自身のみを携えて行く』と言いたかったのではないでしょうか。人間は皆、同じように偉大である。この(裸一貫の)自分さえあれば、すべてだと──」と洞察どうさつしておられた。
 私は「『不屈の人間』こそが『希望』の当体であり、『希望』そのものです」と賛同した。
 自分さえいれば、何でも開いていくことができる。開いてみせる──そうした「不屈の人間」の代表は「信仰者」である。信心にこそ「永遠の希望」がある。
 そして「希望」は労苦から生まれる。労苦を惜しまぬ勇気と情熱から生まれる。
 ゆえに「受け身」と「惰性」は、希望の敵である。流されて生きることは、不幸へと自ら流れていくことである。
3  信心は日々惰性との戦い
 信心とは惰性との間断なき戦いである。
 大聖人は「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」──月々、日々に信心を強くしていきなさい。少しでもたゆむ心があれば、魔が(そのすきに)乗じるであろう──と仰せである。
 また「信心にあかなく無倦して所願を成就し給へ」──信心にあきることなくして、所願を成就されるがよい──と。
 「進まざるは退転」という。戸田先生も、信心の惰性を常に戒められた。
 「宇宙のあらゆる一切のものは、天体にせよ、一匹のしらみにせよ、刻々と変転していく。一瞬といえども、そのままでいることはできない。
 そこで、一番の問題は、良く変わっていくか、悪く変わっていくかです。そのことに気づかないでいる時、人は惰性に流されていく。
 つまり、自分が良く変わっていきつつあるか、悪く変わっていきつつあるか、さっぱり気づかず平気でいる。これが惰性の怖さです。信仰が惰性に陥った時、それはまさしく退転である。信心は、急速に、そして、良く変わっていくための実践活動です」等々と。
 ″進んでいない″ことは、″止まっている″ことではない。″退しりぞいている″ことと同じなのである。
 たとえば、高速で進む船から転落すれば、船から急速に遠ざかり、やがておぼれてしまう。学校でも、何年たっても進級できなければ、それは「止まっている」というより「落第している」のであろう。

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