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日蓮大聖人・池田大作

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第1回SGIアジア総会 無上道の人生は「無二の信心」に

1992.2.25 スピーチ(1992.1〜)(池田大作全集第80巻)

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1  <第一日>人生いかに生きるべきか
 人生、いかに生きるべきか。正しい人生とは何か。善とは何か。これは古今の哲学・宗教の″出発点″となる問いかけであった。日本でもかつて『善の研究』(西田幾太郎)という著作が多くの知識層をひきつけ、むさぼるように読まれた。今よりも、人々の関心は真摯(しんし)であったようだ。
 具体的には省略するが、結論していえば、どんな哲学・宗教にも、まだ上がある。「有上道うじょうどう」である。仏教の中でも爾前迹門にぜんしゃくもんは有上道である。
 それに対し、「無上道」──これ以上ないという最高・至上の法が、日蓮大聖人の「妙法」である。その妙法に生き、妙法を広める人も「無上道の人生」となる。それが私どもの人生なのである。
 社会にはさまざまな″道″がある。政治、経済、科学、スポーツ、芸能……。それぞれの舞台で華やかに活躍する人生もある。また生活の大地に根ざした人生もある。自分の道で第一人者になる人もいれば、おごりから転落する人もいる。
 人さまざまであり、その道なりの深さと奥行きもある。しかし、これらは永遠性の次元から見れば「有上道」である。また真実の幸福の手段の場合もある。いずれにせよ、移ろいゆく世間の現象や価値にとらわれた人生は「無上道」とは言えない。
 もちろん、信心をしても、さまざまな葛藤かっとうや苦労は、人生の避けられない現実である。しかし、一万メートルの上空を行く飛行機が、雲の群れを下方に見下ろし、燦々さんさんたる太陽の光を翼に受けて飛ぶように、一切の労苦を見下ろし、悠然ゆうぜんたる境涯で毎日を楽しみきっていける──この境涯を開くのが「無上道の人生」である。すなわち私どもの人生である。
 大聖人は「諸宗は本尊にまどえり」と仰せになり、正しい「本尊」すなわち「根本尊敬」の対境をおしたためくださった。そのうえで「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」と明確に教えておられる。
 また、日有上人は「堂社僧坊は仏法にあらず(中略)信心無二にして筋目を違へず仏法修行するを仏道修行広宣流布とは云ふなり」(富要二巻)と述べられている。
 どんなに正しい御本尊といっても、正しい「無二の信心」がなければ功徳はない。正法ではない。そのことは、他宗日蓮宗の姿を見れば明らかである。その堂宇どうう伽藍がらんには、大聖人の御真筆の御本尊さえ、あられる。しかし正しき「信心」がないゆえに邪流となってしまっている。
 「法」とともに大切なのは「人」である。なかんずく一宗の中心になる「人」の「信心」が狂ってしまえば、そこには正流はない。指導者が悪人であれば、だれも法を信じない。
 それどころか、法が正しければ正しいほど、その法を利用するだけ利用し、正法流布の人を迫害し、広布を妨げた罪は大きい。御書と経文に照らして、これ以上はないという大罪である。
 それに対し、大聖人の仰せ通りに、「自行化他」の実践をしているのは創価学会である。仰せ通りに、社会のなかで人々を救っているのは創価学会である。仰せ通りに、世界広宣流布を実現してきたのは創価学会である。学会にこそ「無二の信心」「正しき信心」「深き信心」がある。
 ゆえに、この道に、大聖人直結の「無上道の人生」がある。御本尊の無量の功徳を満喫しゆく「永遠の幸福」の道がある。
 この誇りと確信で、一生涯、仲良く生き抜いていただきたい。またアジアの皆さまは、楽しい、有意義な日本滞在としていただきたい。本日は、本当にご苦労さま。
2  <第二日>将来、インドでアジア総会を
 近い将来、インドで「アジア総会」を開催してはどうか。できれば文化祭も同時開催することを提案したい。
 また地元の要請もあり、ニューデリー付近に、「記念菩提樹ぼだいじゅ園」をつくりたい。″創価山″″創価記念菩提樹園″ともいうべき、仏法の研修と文化・友好の広場としていきたい。
 同園には、今回の第一回アジア総会の参加者全員はもちろん、委員会で検討し、世界の広宣流布に貢献してきた方々の「菩提樹の植樹」も行いたいと考えている。
3  日蓮大聖人は、皆の幸せのために出現された。ゆえに皆が喜ぶことを、大聖人も喜んでくださる。皆が「本当に楽しい」「本当にうれしい」と歓喜すれば、大聖人も喜んでくださる。これが本当の仏様の御心と信ずる。皆を苦しめたり、皆が苦しむのを喜んでいるような人間は、大聖人の御心と正反対である。
 信仰は自分自身が生き生きと、楽しく生き抜いていくためにある。ゆえに、信仰のことで、いたずらに″とらわれた心″になって、きゅうくつに自分を縛る必要はない。
 勤行・唱題も、やった分だけ自分の″とく″になる。かといって、やらないと″ばちが出る″などということはない。それでは、はじめから信仰しない人のほうがよいことにさえ、なってしまう。
 妙法への信心の「心」に、また一遍の唱題に、無量の功徳があると大聖人は仰せである。そう確信し、勇んで、伸び伸びと、喜びの心をもって仏道修行していく一念に、福運はいよいよ限りなく開けてくる。この微妙な「一念の転換」に仏法の要諦もある。
 楽しいアジア総会であっていただきたい。楽しい家族の集いであっていただきたい。聡明に、楽しい人生であっていただきたい。

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