Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

鎌倉・湘南合同総会・文化合唱祭 学会こそ人類の「幸福のオアシス」

1992.1.12 スピーチ(1991.10〜)(池田大作全集第79巻)

前後
1  功徳は御本尊への「信心」に具わる
 鎌倉・湘南の皆さま、合同総会、おめでとうございます。
 本日は、また「関西文化音楽祭」が、大阪の関西戸田記念講堂で開催されている。関西の皆さま、お元気ですか!またお会いしましょう!
 なお本日は、この会場に海外からアメリカ、スペイン、イタリアの代表の方々が、祝福に駆け付けてくださった。
 鎌倉は、大聖人にえにし深い地である。また信徒の四条金吾らが活躍した舞台である。そして湘南は、大聖人が発迹顕本ほっしゃくけんぽんされた竜の口をようする。この地で妙法広布に励まれる皆さまは、まさに有縁の地涌じゆの勇者であられる。
2  この神奈川・鎌倉の地で、法難をうけながら、けなげに信心を貫いていた母と娘──乙御前おとごぜんとその母・日妙聖人に対し、大聖人は次のように仰せになっている。
 「いよいよ強盛の御志あるべし、冰は水より出でたれども水よりもすさ凄冷まじ、青き事は藍より出でたれども・かさぬれば藍よりも色まさる、同じ法華経にては・をはすれども志をかさぬれば・他人よりも色まさり利生もあるべきなり
 ──いよいよ強盛の信心をしていきなさい。氷は水から出たものであるが、水よりも冷たい。青の色はあいという植物から出るが、色を重ねると藍よりも青い色となる。同じ法華経ではあられても、信心の志を強く重ねれば、他人よりも色も優れ、功徳も大きいであろう──。
 「強盛な信心」があるかないか。功徳も幸福も、一切がそれで決まるのだ、との仰せである。
 「同じ法華経」──同じ御本尊であっても、問題はこちらの「信心」がどうかである。「妙法への信心」に功徳が備わっているのである。「信心」がなければ何の功徳もない。学会は最も強盛な「信心の団体」であるゆえに、心を合わせて進む時、大功徳がある。
 「木は火にやかるれども栴檀の木は、やけず、火は水にさるれども仏の涅槃の火はきえず、華は風にちれども浄居の華は・しぼまず・水は大旱魃かんばつに失れども黄河に入りぬれば失せず
 ──木は火に焼かれるが、栴檀という香木こうぼくは焼けない。火は水に消されるけれども、仏の涅槃(悟り)の火は消えない。花は風に散るけれども、浄居天(常に風災がないとされる理想の世界)の花はしぼまない。水は大旱魃(日照り)にはなくなるが、黄河の流れに入ればなくならない──と。
 生命に刻まれた因果は善悪ともに永久に消えない。「信心」によって成仏した人の「知恵」の火、「福徳」の花、そして信心根本の「広布」の大河は永遠なのである。
3  だれ人にも壊せない「大福徳の因と果」
 信心の世界にあっては、祈れば祈った分だけ、動けば動いた分だけ、語れば語った分だけ、「因果の理法」で、すべて自身の福徳となる。自分の境涯を限りなく広げていく。自分自身の「幸福」の軌道を固めていく。信心の世界には、まったくムダがない。
 だれが見ていようと見ていまいと、この「因果の理法」は厳然である。格好ではない。権威でも立場でもない。「心」である。「行い」である。これが大聖人の仏法である。
 ″本物″の信心を貫いた人は、″本物″の福運を積むことができる。
 何があろうと、だれびとが何を言おうと、私どもが自ら築いた、この「幸福境涯」は絶対に侵すことはできない。その「福徳」を奪うこともできない。
 むしろ大難をうけるたびに、ますます素晴らしい大境涯を開いていくことができる。飛行機や船が、空気や波の″抵抗″を利用して進み、より安定した前進をするように、一切を、より盤石な幸福境涯への″推進力″としていける。ここに信仰の真髄がある。
 その意味で、この一年、学会とともに、自分自身の偉大なる「因果の理法」の歴史を築いていただきたい。

1
1