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日蓮大聖人・池田大作

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「墨田の日」記念幹部会 学会原点の庶民のスクラム晴れやか

1991.12.3 スピーチ(1991.10〜)(池田大作全集第79巻)

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1  「教学の墨田」「聖教の墨田」を
 しばらくでした。″下町″に来ると、ホッとする。にぎやかで、気取りがなくて、人がよくて、勢いがあって──こうした″庶民の集い″に学会の原点があり、強みがある。
 ″悪い人″が多いので、人がよいだけでは、いけないが、これからは、いよいよ、賢明にして、たくましき″庶民のスクラム″を広げていく段階になったと確信する。その先駆さきがけをお願いしたい。
 本日は七十周年への新しい出発の集いであり、何点か提案しておきたい。
 まず墨田は今後、「教学の墨田」「聖教の墨田」を合言葉に前進していってはどうだろうか。「墨田は文化的イメージが薄い」などと悪口をいう人もいるが、時代は変わった。庶民の団結が一切をリードする″時″が来た。
2  牧口先生「濁世の元凶は″偽善の高僧″」
 ここ墨田は、牧口先生と戸田先生が師弟の歴史を刻んだ舞台である。
 大正九年(一九二〇年)から二年間、牧口先生と戸田先生は、墨田区内の三笠尋常小学校で教鞭をとっておられる。同九年当時、牧口先生は四十九歳、戸田先生は二十歳。
 また戸田先生の会長就任(一九五一年)、私の会長就任(一九六〇年)も墨田の地であった。
 さて、牧口先生は昭和十七年、創価教育学会の機関誌『価値創造』に、「価値判定の標準」という論文を書いておられる。同年、当局の圧力により、廃刊にさせられる直前のことであった。
 この論文の中で牧口先生は、大要、次のように述べておられる。
 ″現在のような恐怖くふ悪世の相を現出し、釈尊の三千年前の御予言である「末法濁悪じょくあく」の世を、現実に証明しているものは何か。
 それは強盗・殺人等の大悪ではなく、過激な社会運動の大悪でもない。それは、高官高位にとぐろを巻いて動かず、賢善有徳けんぜんうとくの姿をしながら、大善を怨嫉おんしつし、軽蔑けいべつして、大悪に迎合し、加勢し、自らの地位を守り、現状を維持いじすることに力を尽くしている高僧、大徳、智者、学匠といわねばならない。
 「仏法によって悪道にちる者は大地微塵みじんよりも多く、仏法によって成仏する者はつめの上の土よりも少ない」との仏誡ぶっかい(仏の誡め)が、この事実によって初めて理解されるのである″と。
 今、牧口先生の、このお言葉の通りとなった。″末法濁世の悪″と戦う創価学会の精神は、牧口先生の時から、いささかも変わっていない。
3  さらに牧口先生は、同じ論文で、″半狂人格″──半分狂っているような人格についても論じておられる。
 「何をもって半狂人格といふか。一方で肯定した事を他方では否定して平気で居るものは、人格に統一を失ふものとして、相手方を驚かせるもので、取引き関係などをなすものにとっては迷惑千万と云はねばならぬ」
 つまり、半狂人格の人間は、社会では絶対に通用しないし、信用もされないと。最近、こういう人が多いようだ。
 さらに、こう続けられる。
 「統一を条件とする常人に対して、人格分裂の異常人となし、狂人の一種として警戒をしなければなるまい。愚人がその愚を知らないと同様に、悪人がその悪をさとらぬところに常人と異ふ所がある」
 「平常普通の生活に於ては、少しも狂った所がないどころか、却って気がきき過ぎて買ひかぶられるくらいであるが(中略)ことに名利に関し、利害問題になると、意外の狂暴性を発揮して、恥も外聞も顧みない所に異常性が見える」と。
 これからは幹部の成長が大事である。決して、人を叱ってはならない。叱る資格もない。たたえ、励ましていかねばならない。
 「誠実」そのものの心で、同志のために尽くしていくのが、学会精神である。特に、壮年は婦人部の方々を大切にし、感謝しながら、ナイト(騎士)の精神で、よろしくお願い申し上げたい。

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