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日蓮大聖人・池田大作

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神奈川・横須賀で第1回文化音楽祭 「旭日の港」から「自由の大海」へ船出

1991.11.24 スピーチ(1991.10〜)(池田大作全集第79巻)

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1  半島は新しき文明の起点
 前回の″雪の横須賀訪問″(昭和五十七年二月)から、九年ぶりに訪問できてうれしい。
 二十七歳の時(昭和三十年四月)の初の横須賀を訪問した。当時の日記には「国際色豊かな、横須賀の街を、初めて見る」と、″世界広布の前兆ぜんちょう″を感じとって記したことを思い出す。
 横須賀は″神奈川広布のトップランナー″であり、横須賀の発展が即、神奈川の発展につながる。その先駆さきがけの使命は、いよいよ大切になっている。
 牧口初代会長の『人生地理学』には、半島が″文明の起点″となった古今の例が記されている。
 横須賀のある三浦半島は、幕末にペリーの黒船が来航し、さらに幕府の咸臨丸かんりんまるがアメリカへ出航した地であり、日本の国際化の出発点となったという歴史がある。世界広布の本格的な船出の今、横須賀の友が″トップランナー″として洋々たる「自由の大海」へ乗り出してほしい。
2  今、先駆けの人に大果報
 「妙法比丘尼びくに御返事」を拝読したい。
 「日蓮は法華経のゆへに度度所をおはれ戦をし身に手をひ弟子等を殺され両度まで遠流せられ既に頸に及べり、是れひとえに法華経の御為なり
 ──日蓮は法華経のゆえにたびたび所を追われ、戦って傷つけられ、弟子等を殺され、二度までも遠流になり、すでに頸まで斬られそうになった。これは、ひとえに法華経のおんためである──。
 「法華経の中に仏説かせ給はく我が滅度の後・後の五百歳・二千二百余年すぎて此の経閻浮提えんぶだいに流布せん時、天魔の人の身に入りかはりて此の経を弘めさせじとて、たまたま信ずる者をば或はのり打ち所をうつし或はころしなんどすべし、其の時先さきをしてあらん者は三世十方の仏を供養する功徳を得べし、我れ又因位の難行・苦行の功徳を譲るべしと説かせ給う取意
 ──法華経の中で仏が説かれるには、「私の入滅ののち、後の五百歳、二千二百余年を過ぎて、この経が全世界に流布しようとする時、天魔が人の身に入り代わって、この経を弘めさせまいとして、たまたま信ずる者があれば、あるいはののしり、暴力をふるい、追放し、あるいは殺したりするであろう。その時、まず先駆さきがけをする人は、三世十方の仏を供養するのと同じ功徳を必ず得る。私(釈尊)もまた、難行・苦行の修行の功徳を譲るであろう」と説かれている──。
 この御聖訓通り、世界広宣流布をさせまいとする圧迫に対し、「先駆けして戦う人」の大果報は絶対である。
3  「立正安国論」の御指南──″悪侶を誡めよ″
 また、「立正安国論」には「悪侶を誡めずんばあに善事を成さんや」──悪い僧侶をいましめなければ、どうして善い事を成し遂げることができるであろうか──とある。
 そして、この御文の前には、悪侶の本質を鋭く指摘した「法華経」「涅槃経」の門が引かれている。まず「法華経」(勧持品)の文には、次のようにある。
 「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲てんごくに未だ得ざるをれ得たりとおもい我慢の心充満せん
 ──悪世の中の僧侶は、邪智で心が正直でない。いまだ悟っていないのに悟ったと思い、自分は偉いと思い上がる心が充満している──。
 「或は阿練若あれんにゃに納衣にして空閑に在り自ら真の道を行ずとおもいて人間を軽賤する者有らん
 ──あるいは人里離れた静かな場所に、袈裟けさ・衣を着けて閑静かんせいな地に暮らし、自ら仏法の真の道を行じているとおごり思って、人間を見下みくだし、いやしめる悪侶があるであろう──。
 「利養に貪著とんじゃくするが故に白衣の与めに法を説いて世に恭敬くぎょうせらるること六通の羅漢の如くならん
 ──(彼らは)自分の身を養うことに執着しゅうじゃくむさぼるゆえに、在家のために法を説いて、世の人々から、まるで六神通(六種の神通力)を得た羅漢(阿羅漢=声聞が修行によって達する最高の悟りの境地)のように尊敬されるであろう──。
 「常に大衆の中に在つて我等を毀らんと欲するが故に国王・大臣・婆羅門・居士及び余の比丘衆に向つて誹謗ひぼうして我が悪を説いて是れ邪見の人・外道の論議を説くと謂わん
 ──常に大勢の人々の中で、正法を持つ私たちをそしろうとするがゆえに、国王や大臣、バラモン、在家の名士、および諸々もろもろの僧侶に向かって(正法の行者のことを)「よこしまな思想をもっており、(仏法ではない)外道の論議を説いている」等と誹謗するであろう──。
 「濁劫悪世の中には多く諸の恐怖有らん悪鬼其の身に入つて我を罵詈し毀辱せん
 ──濁りきった悪世の末法においては、多くの諸々の恐怖があるだろう。悪鬼がその身に入って、正法の行者をののしったり、誹謗しはずかしめたりするであろう──。
 「濁世の悪比丘は仏の方便・随宜所説の法を知らず悪口して顰蹙ひんしゅくし数数・擯出せられん
 ──濁った世の悪侶は、仏が衆生の機根にしたがって説いた方便の教えを区別できず(邪法を容認し)、かえって正法の行者の悪口を言い、顔をしかめて憎み、何度も、その正法の行者を追放するであろう──と。
 これらの御文に描かれた「僣聖増上慢せんしょうぞうじょうまん」の姿は、今日にも通じる永遠の鏡である。

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