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日蓮大聖人・池田大作

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関西最高協議会 三烈士の精神は学会の中に

1991.10.17 スピーチ(1991.10〜)(池田大作全集第79巻)

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1  熱原法難の発端に富士地方の弘教拡大
 きょうは十月十七日。弘安二年(一二七九年)十月十五日に「熱原の三烈士」が殉教じゅんきょうし、その報が大聖人にもたらされたのが十七日である。大聖人の出世の本懐であられる「一閻浮提総与いちえんぶだいそうよの大御本尊」を建立こんりゅうされる機縁きえんとなった、この法難について、少々、語っておきたい。
 熱原法難は、無名の民衆が、強大な権威・権力による弾圧に対して、身命しんみょうしまずに戦ったほまれの″先駆の歴史″である。また、今、法難の経過を振り返った時、そこから数々の教訓をくみ取ることができる。
 なお、熱原法難の史実を初めてつまびらかにされたのは、日亨にちこう上人であられる。上人の『熱原法難史』、私が願主となって発刊された『富士日興上人詳伝』など、その御研究の成果を基本としてお話ししたい。
2  法難の発端となったのは、日興上人の富士地方(駿河するが国富士郡=現・静岡県富士市、富士宮市等の一帯)への折伏・弘法ぐほうが拡大したことによる。
 もともと富士地方は、日興上人にとって、えにしの深い地である。幼少時を過ごされたのは、母方の由比ゆい入道の屋敷があった河合かわい(現・富士郡芝川町)。修学されたのは、富士川の対岸にあった蒲原かんばら庄(現・庵原いはら郡富士川町)の天台宗寺院・四十九院であった。また、須津庄(現・富士市)の東光寺の美作みまさか阿闍梨あじゃりに外典(儒教等)を、同地の地頭・冷泉中将に歌道や書道を学んでおられる。
 正嘉二年(一二五八年)、日蓮大聖人は「立正安国論」の構想をられるため、岩本(現・富士市)の天台宗寺院・実相寺で一切経の閲覧えつらんをされた。日興上人は、ここで大聖人にお会いし、自ら願って弟子となられた。
 この有縁うえんの地に対して、日興上人は早くから正法弘通の手を差し伸べられていた。特に、文永十一年(一二七四年)五月、大聖人が身延に入られた後、本格的な弘法を始められている。
 祖父の河合の由比入道、日興上人のおばの嫁いでいた賀島(現・富士市)の高橋六郎兵衛入道、南条時光の姉の嫁いでいた重須(おもす=現・富士宮市)の石河新兵衛入道などが、日興上人の折伏によって入信している。
 また、それまでに、日興上人によって四十九院、実相寺の僧侶の中にも、正法を信じ、大聖人の門下になる者が数多く生まれていた。さらに、下方庄熱原郷の南部の市庭寺の地に、天台宗の滝泉寺りゅうせんじという大寺があり、そこの住僧の少輔房しょうぼうが由比家と縁があった関係から日興上人の折伏を受けて入信したのをきっかけに、下野しもつけ房・越後えちご房・三河房などが相次いで正法に帰依きえしていった。
 駿河するがの国は執権・北条時宗ときむねが守護であり、特に富士の下方庄は、時宗の母で、時頼の後家尼の所領だったのである。そのため、下方庄には、北条家の政所まんどころ(所領の管理をつかさどる役所)があり、住民を支配していた。
3  滝泉寺の院主は不在で、院主代(住職代理)の平左近へいのさこん入道行智ぎょうちが実権を握っていた。行智について、日亨上人は次のように述べられている。
 「当時の滝泉寺には院主はあったが親しく寺務を取る事出来ぬ事情であった、其所そこで北条家の庶流いちもん(本家から分かれた一族)で此の辺土に漂泊ひょうはくして居た平左近入道行智と云ふ生道心なまどうしん(にわか坊主)の痴漢しれもの(愚か者)が鎌倉(幕府)に運動して一時のあずかり手となり院主代としてもっぱら寺務を取扱うてたが、学問が有る訳でなく修行が積んでるのでも人徳が高い訳でもない、執権家をかさに被(き)て威張いばり散らして居た」(熱原法難史)と。
 行智は「左近入道」というから在家の入道にすぎない。政所の住民支配を陰から助けるためもあって、滝泉寺という大寺の院主代になれたというのも、住民ににらみがきく北条一族の出身だったからである。そしてその権威をカサに威張りちらし、政所の住民支配を側面から手助けしていた。
 信仰を失った宗教が、権力と結託けったくして、民衆を抑圧よくあつし、支配する道具となった事例は、古今の歴史にこと欠かない。

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