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日蓮大聖人・池田大作

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カナダ・アメリカ最高代表者会議 「良識」「着実」「人格」が発展の上台

1991.9.30 スピーチ(1991.7〜)(池田大作全集第78巻)

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1  「常識曾モン・センスとで真実を見抜け
 カナダの皆さま、遠路ようこそ! またアメリカのリーダーの方々も、いつもご苦労さまです。
 本日は代表の集いであるゆえに、少々、語っておきたい。むずかしいところもあると思うが、自分自身の勉強と思っていただきたい。
 リーダーの成長こそが、組織の前進となる。人材も出てくる。そしてアメリカ、カナダの前進は、世界の前進である。いろいろなことを学ばねばならない。リーダーが知性と人格を磨いているところは、後輩が幸せである。
 「良識」「着実」「人格」が、大いなる発展への土台となっていくことを、自覚していただきたい。
2  ここアメリカで青年時代、ジャーナリストなどをして文筆に活躍し、やがて日本に永住した人物がいる。ラフカディオ・ハーン2八五〇年―一九〇四年)、日本名・小泉八雲である。先日、私は日本の島根県を訪れたが、彼は島根の松江、また熊本、神戸、東京で暮らした。日本と北米、東洋と西洋の文化交流の先駆的な業績をなした一人であろう。
 八雲が書きとめた日本の民話に「常識」という話がある。″物怪″(化け物)にだまされていた僧を、庶民の「常識」が救う物語である。
 ――昔、関西のある山の中、一人の博識の僧侶が住んでいた。俗世間とのつき合いは、ほとんどない。供養に訪れた猟師に僧侶は言った。
 「このごろ、毎夜、普賢菩薩がこの寺にお見えになるのじゃ。不思議なことじゃが、これも長年の修行の功徳と思う。今夜は泊まっていくがよい。普賢菩薩さまにお会いできるから」
 猟師は喜んで寺に泊まった。しかし、考えれば考えるほど、そんなことがあるだろうかと疑わしかった。聞いてみると、寺の小僧も何度も見たことがあるという。猟師は、ますます「おかしい」と思い始めた。
 その日の真夜中、待っていると、東のほうに星のような白い光が現れ、ずんずん大きくなった。やがて光はかたちをとり、経文のとおり、六本の牙のある雪のように白い象に乗って″普賢菩薩″が現れた。
 僧侶と小僧は、ひれ伏して懸命に拝んでいる。すると猟師は、いきなり手に弓を取って立ち上がり、菩薩めがけて矢を放った。たちまち激しい雷のような音とともに、白い光は消えた。僧侶は絶望し、涙を流しながら怒った。
 「この恥知らずめ! 何という罰当たりな!」
 猟師は静かに言った。
 「和尚さま、落ち着いてください。はっきり申し上げますが、あれは普賢菩薩ではなく、あなたをだまし、ことによると、あなたを殺そうとしている化け物ですよ。朝になればわかることでしょう」
 夜明けとともに調べてみると、点々と血の跡がついていた。たどってみると、矢を突き立てた大きな狸の死骸があった。これが化けていたのである。
 猟師は、どうして狸のしわざとわかったのだろうか。
 それは――もしも本物の普賢菩薩ならば、だれよりも法華経を修行している人の所にこそ現れるはずだ。しかし、ろくに修行もしていない寺の小僧や猟師の自分にまで、はっきりと見える。これはおかしい! 仏法は「修行」に応じて「功徳」があるはずだ。修行に関係なく結果が現れるとしたら、それは仏法ではなく、魔法ではないか。
 「因果」を無視する物怪のしわざだ!――猟師はこう見破った。
 八雲はこの物語を、こう結んでいる。
 「僧は学識があり聖といわれていたが、いともたやすく狸に化かされたのである。猟師は無智で信心もなかったが、すこぶる常識に富んでいたから、生来の才覚でもって、その化けを見破り、そのおそろしい幻想を打砕いたのである。」(『怪談・奇談』平川鵬弘訳、講談社学術文庫)
3  これは日本の昔話であり、日蓮大聖人の正法とは関係がない。ただ、宗教が人間を愚かにする危険を、わかりやすく示す物語である。
 どんなに「知識」があっても、健康な「常識」(コモン・センス)がなければ、生かすことはできない。
 建国の時、独立の時のアメリカを大きく支えたのも「コモン・センス」であった。「常識」がなければ、宗教は時に「盲信」となり「狂信」となる。「盲信」「狂信」は、仏法ではない。
 「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」――仏法というのは道理である。道理というのは主人(権力者)に勝つものである――と、大聖人は仰せである。
 また「真理は単純である」という言葉がある。反対に「うそ」をとおそうとする人間ほど、わざと話をややこしくさせるような″へ理屈″を言うものである。また狸が菩薩に化けていたように、さも立派そうな粉飾をこらすものである。
 たとえば、死身弘法の修行もないのに、仏法上の位だけは高いのだというのでは、「因果」を無視している。それは仏法ではない。「菩薩に化けた物怪」のような話である。(『摩訶止観』では、経典によらない天魔の僧について「此れ乃ち仏法を滅する妖怪なり」〈大正四十六巻〉と呼んでいる)
 たとえば、その位が仏と″一体不二″などというならば、その修行も″一体不二″でなければならない。この当然の「道理」、仏法の「常識」をわきまえていれば、むずかしいことは何もない。だまされることもない。
 「正義は、現実に広宣流布を進めている人のもとにある」「人格のおかしな人は信心もおかしい」「くるくる言うことが変わるのは、ウソをついている証拠である」「話し合いに応じられず、威圧的なのは、何かごまかそうとしているからであろう」
 こう見ていく、当たり前の「道理」と「常識」さえあれば、こと足りるのである。民衆の常識で判断して、おかしいものはおかしいのである。
 いわんや、私どもは大聖人の御書という「明鏡」がある。歴代上人のお言葉もある。その鏡に照らして、おかしいものには、絶対に従ってはならない。

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