Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

青年部・教学部代表協議会 大勇猛心の人を諸天は加護

1991.9.20 スピーチ(1991.7〜)(池田大作全集第78巻)

前後
1  文証無き者はすべて邪偽
 真実を真実のままに話す。事実を事実のままに話す。それが歴史となり、未来を照らす。また、自身の魂の健康を育んでいく。青年は語らねばならない。
 そして教学を学び、正邪の基準を知った教学部員は、「正」を訴え、「邪」を破ってこそ、学んだ価値がある。教学を武器に戦ってこそ、「学」が成仏への推進力となる。
 日蓮大聖人は「文証」「理証」「現証」という″証拠″が、正法には不可欠であると教えられた。
 御書には、文証がいかに大切であるか、経文や天台などの文を引いて強調されている。
 「文証無き者はことごとく是れ邪偽・彼の外道に同じ
 ――経文によって説明できない者は、すべて邪であり、偽りである。かの外道と同じである――と。
 これは天台の『法華玄義』の釈を引かれての仰せである。
 また「若し仏の所説に順わざる者有らば当に知るべし是の人は是れ魔の眷属けんぞくなり
 ――もし仏の説くところ(経文)に従わない者がいれば、よく知っておきなさい、この人は魔の一類である――との涅槃経の文を引いておられる。
 そして「文証」に基づかない過ちについて、それは「天魔の部類・外道の弟子」であると厳しく破折しておられる。
 私は大聖人の仰せどおり、つねに御書の「文証」を基準とする。また歴代上人の正しき言葉にのっとって語る。
 ある牧口門下生が言っていた。「現在の宗門が、師匠である日亨上人、日昇上人、日淳上人、日達上人等、歴代の上人のお言葉に『信伏随従』していたら、決して今のようなことにはならなかったであろう。師弟相対という、最も大切な基本はどうなってしまったのだろうか」と。
2  正法の行者を憎む者には仏罰
 初めに「日女御前御返事」の一節を拝したい。
 「法華経をば経のごとく持つ人人も・法華経の行者を或は貪瞋癡により或は世間の事により或は・しなじな品品ふるまひ振舞によつて憎む人あり、此は法華経を信ずれども信ずる功徳なしかへりて罰をかほるなり
 ――法華経(御本尊)を経文のとおりに持つ人々であっても、法華経の行者を、あるいは貪欲・瞋恚・愚癡の煩悩によって、あるいは世間のことによって、あるいはさまざまな振る舞いが良くないといって、憎む人がいる。このような人は、法華経(御本尊)を信じていても、信ずる功徳はなく、かえって罰を受けるのである――。
 これは、末法の法華経の行者、すなわち御本仏日蓮大聖人に背く大罪を明かされた御文である。貪欲・瞋恚・愚癡によって憎むというのは、貪りと瞋り、癡かさ、すなわち、その人の心に巣くっているさまざまな煩悩が原因で、法華経の行者を憎むことである。
 世間のことによって憎むというのは、仏法の教義によらずに、世間的な事によせて、憎む場合である。
 仏法の世界は「経文」が基準である。私どもでいえば「御書」が根本である。それなのに、風評などの世間的な面を基準にして正法の行者を憎むという本末転倒の姿をいう。
 さまざまな振る舞いによって憎むというのは、その人の振る舞いや言動などの表面に現れた姿を見て憎悪をいだく場合である。
 自己の小さな感情にとらわれ、表面のみを見て人を憎むことは、いつの時代にも変わらない、人間の傾向性であろう。
 大聖人は、いかなる理由があろうとも、真実の法華経の行者を憎んだ場合には、法華経を経のごとく持っている人であっても、功徳はなく、かえって罰を受ける、と厳しく戒められている。いわんや、法華経を正しく修行もしないで、行者を憎む場合は、罪は当然である。
 総じて、現在にあてはめれば、大聖人の仰せのままに、信行に励み、広布に邁進する正しい信仰者に対して、感情からであれ、世間の事によってであれ、その言動からであれ、憎しみをいだいて行動した場合には、どのような立場であろうとも、功徳がないばかりか、大罰を受けることになる。
 「法」を大切にするといいながら、その「法」を持ち、弘める「人」を憎み、いじめ、なきものにしようとする。そのような門下がいれば、大聖人から厳しいお叱りを受けることは疑いないであろう。
3  三毒の代表――舎利弗の瞋恚
 日亨上人は、この貪欲・瞋恚・愚癡の三毒について、次のように述べられている。(『追考 聖訓一百題』。以下、引用は同書から)
 「三毒とは貪慾と瞋恚と愚癡の三つの精神作用で此がすべての迷い煩悩の真先に差出る猛烈な迷いであって人類の智徳を壊る事が頗る多いので毒の名が与えられてある。僧衆の中で此三毒を沢山に所有する代表者は難陀と舎利弗と提婆達多で次での如く貪瞋癡を持って居るが、但し此は猛烈な特徴のある代表者と云うべき御弟子方であって、其外の人々にも三毒ある事は無論の事であり又三毒互具も当然の事である。貪慾の人に瞋恚や愚癡が附属し、瞋恚性の人に貪慾と愚癡とが附き纏うている事も有り勝である」と。
 三毒とは、あらゆる煩悩、迷いの根本であり、衆生を害するので「毒」と名付けられているのである。
 日亨上人は、釈尊の弟子のなかで、三毒がとくに強い代表者として、難陀(阿難、阿難陀ともいう)と舎利弗と提婆達多を挙げておられる。
 提婆達多が三毒に支配された代表というのは当然と思えるが、智慧第一の舎利弗や、多聞第一といわれた難陀が挙げられているのは、意外な感じがするかもしれない。外見だけではわからないものだ。

1
1