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日蓮大聖人・池田大作

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鳥取・島根代表記念勤行会 御本尊において三宝は相即

1991.9.8 スピーチ(1991.7〜)(池田大作全集第78巻)

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1  法宝は御本尊、仏宝は大聖人、僧宝は日興上人
 きょうは、青年部の諸君をはじめ各部の代表の方々とともに勤行をすることができた。皆さまの健康と幸福を心からご祈念申し上げた。
 大切な集いであり、仏法の基本である「三宝」について、歴代上人のご教示を確認しておきたい。
 何ごとも「基本」が大切である。「基本」を踏み外さない限り、人は成長し、組織は発展していく。現在の宗門の問題も「基本」をおろそかにしたことに原因があるとは、識者をはじめ多くの人々の一致した意見である。
 日達上人は、「三宝」について、次のように明確に示されている。(昭和五十二年七月二十七日、法華講連合会第十四回大会。以下、日達上人の引用は『日達上人全集』から)
 「わが日蓮正宗においては、三宝はすでに宗規において定められておるごとく、大曼荼羅を法宝とし、宗祖日蓮大聖人を仏宝とし、血脈付法の人日興上人を僧宝とするのである。
 これを詳細に申しますれば、『法宝』は、本門寿量品文底秘沈の大法・本地難思境智冥合・久遠元初・自受用報身如来の御当体・十界本有常住・事の一念三千・人法一箇・独一本門戒壇の大御本尊であります。
 『仏宝』は、久遠本因妙の教主・一身即三身・三身即一身・三世常恒の御利益・主師親三徳の宗祖日蓮大聖人であります。皆朝夕勤行の時に観念文においてみなさまがお唱えになっておる、そのまま法宝であり、仏宝であります。
 『僧宝』は、法水潟瓶・唯我与我のご境涯・二祖白蓮阿閣梨日興上人であります。そこで日目上人は一閻浮提の座主と申し上げるのであります。以下歴代の法主は、日目上人の座を広宣流布の暁までお護りしているのであります。
 この三宝の祭り方は、すでに戒壇の大御本尊様は人法一箇の御本尊であります。また宗祖日蓮大聖人のご当体でありますから、御本尊ご一体を安置し奉れば三宝をお祭りしたことになるのであります」
 「要するに、人法一箇の御本尊を中心とするのが本来の本宗の行き方でございます。御本尊において三宝相即であります。各自みなさま方の仏壇に御本尊を安置して朝夕に信心を励む。それで三宝を敬っておる充分の姿でございます。また三宝は我々の信心修行する者の崇敬するところでありますが、我々僧俗も一つの僧宝として、すなわち仏法を守護し伝習し、未来に仏法を伝えるための僧宝の一人と、広い意味からはいうことができるのでございます。
 しかし我々が布教し折伏するがゆえに、我々も僧宝であるから他の人々が我々を拝んでもいいんだというような心を起こせば、それはすでに僑慢であります。どこまでも本宗の行き方は、御本尊、大聖人、僧宝として日興上人を安置し、その三宝を中心として宗旨が建立されておるのでございます。
 我々はどこまでも大聖人の教えを守り、各自それぞれの職業に励み、信心によって職業を盛大にし、しかも大聖人の弟子としての信心に励まれ、折伏に進まれることがもっとも大切なことでございます」
 日達上人は、「御本尊において三宝相即」、すなわち御本尊こそ、仏・法・僧の三宝を具えている、と示されている。したがって、私どもが、わが家の仏壇に御本尊を御安置して、信行に励むことが、そのまま、正しく三宝を敬っている姿となる、と。
 大聖人の仏法における「根本」は「根本尊敬」の御本尊である。あまりにも明らかな基本である。
 日達上人は、広い意味では、門下の僧俗も、仏法を守り伝えるための僧宝の一人である、とも示されている。ただし、僧宝であるから自分を拝めというような心を起こせば、それは僑慢である、と戒められているのである。
 かりに、だれかが″「三宝は一体」であり、広くは、自分も「僧宝」に当たるから、自分と「仏宝」「法宝」は一体である。御本尊と一体不二である。ゆえに自分は絶対である″――こんなことを言ったとしたら、この日達上人の言葉に背く僑慢謗法であり、末法下種の三宝の本義を破る妄説であることは明らかである。
2  また、日達上人は、こうも述べられている。(昭和五十二年五月二十六日、寺族同心会)
 「我が宗の三宝は、御本尊が法宝、大聖人が仏宝、日興上人が僧宝と立てます。それに対して日目上人は座主である。今言ったとおり、管領して、その大聖人の仏法を治めていく、よく受取って治めていく、すなわち管領という意味を持っていくのである。統べ治める、そして統治をしていく。その日目上人の後は、みな筒の流れのように、それを受継いでいくにすぎない。だから本宗の考えは、広宣流布の時は日目上人の再現、出現だという意味をとっております。すなわち日目上人が広宣流布の時の座主として再誕なされるとの指南であります。だから代々の法主が日蓮大聖人ではない。大聖人そのものと間違って書かれてよく問題が起きますが、その点ははっきりしてもらいたい」
 「三宝はどこまでも、大聖人・日興上人・御本尊、これが本宗の三宝の立て方です。法主が大聖人の代わりだと、即座にこういうことを言うと、外から非難されますから、よくその点に注意していただきたいと思います」
 日達上人は、代々の法主が、ただちに日蓮大聖人の代わりであるなどと言うことは誤りである、と示されている(拍手)。したがって、法主を「現代の大聖人様」などと主張するのは、この日達上人の言葉に違背している。(拍手)
3  「代々の法主が大聖人ではない」
 日顕法主も、その点について、かつて明確・に示している。(昭和五十八年三月三十一日、第四回非教師指導会。「大日蓮」同年五月号)
 「御先師が間違えないようにきちんとお示しくださっておることでありますが、六巻抄の『当流行事抄』の最後に″本門下種三宝″の御指南があります。そこにおいては、人即法の大曼荼羅本尊が法宝であり、また法即人の本因妙の教主・日蓮大聖人が末法下種の仏宝であり、そしてこれを正しく血脈のうえに伝受あそばされて、末法万年弘通の基を開かれた二祖日興上人が僧宝であらせられるということにつき、教道のうえに本門下種三宝をきちっと立てられてあるのであります。
 ですから、日興上人といえども、その唯我与我の御境界のなかにおいての御本尊の御内証と意味に約しては大聖人と一体であるけれども、その尊信のかたちとしての仏・法・僧の三宝とうえからするならば区別があるのであり、仏宝と僧宝とはおのずから違うのです。すなわち、仏宝は大聖人ただお一人であり、日興上人がすでに僧宝のお立場であらせられるのであります」
 「その僧宝ということをもう少し広く解釈すれば、歴代法主がその一分に加わるということもいえるでしょう。さらに広くいえば、日蓮正宗の正しい筋道によって出家得道した教師あるいは学衆等においても、正しい仏法を受持信行するかぎりにおいて、僧宝ということがいえるのであります。もっと広くいうならば、一切衆生のなかで正法を受持信行し、一分でも他に随力演説していく人達は僧俗ともに僧宝であるということができます。しかし基本においては、日興上人をもって僧宝の随一として拝するわけであります。
 そういうところからするならば、歴代法主は僧宝以下の立場であって、それを軽々しく仏様だ、仏様だというような表現は、少し言い過ぎであると私は思っております」
 「大聖人も『凡夫僧』と仰せでありますけれども、さらに七百年過ぎた現在は色々な意味で機根もくだっておりまするし、私を含め、みんな凡夫なのです。そういう立場からするならば、なにも大聖人の生まれ変わりだとか、今日における大聖人だとか、そういうふうな言い方での尊信の仕方は、尊信するようでいて、かえって逆の意味をもつ場合もありうるのです」
 厳密にいえば、歴代の法主は僧宝以下の立場であり、それを軽々しく「仏様である」とか、「現代における大聖人である」などと″絶対化″していくことは、尊信しているようでありながら、じつは貶めていることになる場合がある、と戒めている。
 したがって、「法主と大御本尊は一体不二」「法主は現代における大聖人」などと主張する人がいたとしたら、歴代上人の言葉にも背き、大聖人の仏法の正義を破る謗法となるのである。

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