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日蓮大聖人・池田大作

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イギリス最高協議会 広宣の″宝の塔″は厳然

1991.6.23 スピーチ(1991.4〜)(池田大作全集第77巻)

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1  欧州の広布の基盤は確たるものに
 二年ぶりに、親愛なるイギリスの皆さまとお目にかかれ、本当にうれしい。この二年間のイギリス広布の前進はまことにめざましいものである。
 この発展ぶり、人材の輩出、人材の成長、布教の進展、どれをみても輝かしい偉大なる歴史を築かれた。諸天の守り、諸仏の称讃は、いやまして強く、深く、皆さま方をつつむと確信する。(拍手)
 イギリスに来ると、かつて世界的な歴史学者であるアーノルド・トインビー博士と、約十日間、対談したことが懐かしい。
 アン王女とバッキンガム宮殿で、さまざまな懇談をしたことも懐かしい。また、サッチャー前首相との会見も懐かしい。オックスフォード大学、ケンブリッジ大学を訪問したことも懐かしい。イギリスには、多くの思い出がある。
 このほど私は一週間、フランスに滞在し、多くのフランスのメンバーにお会いした。フランスも、まことに強固な広布の土台ができた。大聖人のお喜びはいかばかりか、と痛感する。
 ともあれ、ヨーロッパは三十年間でみごとに世界広布の基盤と土壌を、確たるものにしたことは間違いない。こんなにうれしいことはない。重ねて、大聖人が大慈大悲をもって、皆さまを称嘆し、厳護してくださることは絶対に間違いないと確信したい。
 ここに、謹んで、尊き使命に進みゆく尊き地涌の皆さまに深甚の敬意を表し、少々、記念のスピーチをさせていただく。(拍手)
2  私の友人で、世界的作家のアイトマートフ氏は、自身の故郷キルギスの「民衆の英知の泉」にいつも立ち返り、みずみずしい″人間の真実″を語り続けておられる。
 キルギスの民話といえば「賢い乙女」の物語を聞いたことがある。
 貧しいけれども聡明な乙女が、その知恵のすばらしさのゆえにハーン(王様)の妃に選ばれ、ハーンをみごとに助けていくという物語である。
 ハーンの花嫁選びの試験としてむずかしい質問が出されていた。その一つに「真実とウソの間には、どれほどの距離があるか?」と。金持ちの娘たちはだれも答えられない。
 しかし、その貧しい乙女はいとも簡単に答える。
 「ウソと真実との距離は、たった指四本分の距離にすぎません。耳と目の間の距離です。なぜなら、私たちの耳は、たくさんのウソを聞きますが、私たちの目は、つねに真実を見るからです」と。
 無認識な悪口や無責任なうわさ話に惑わされず、どこまでも自分の「目」で真実を確かめ、真実を見抜いていく。キルギスの乙女は、その自分の確かな「目」を信じていた。
 もちろん現代では「作られた映像」もウソをつく。「見た」ものが「真実」とは限らない。ウソも複雑になり、高度になっている。その分、より賢明にならねばならない。現場での「なまの事実」を尊重する揺るぎなき良識と、「根拠は何か」を厳しく問う鋭い知性が必要になっている。
 ともあれ牧口初代会長も「認識せずして評価するな」とよく言われた。
 その意味から、アイトマートフ氏のような″具眼の友″をもっていることは私どもにとって幸福である。
3  凡夫の生命に仏、わが身が宝塔
 大聖人は、繰り返し繰り返し、次のように教えられた。
 「仏と申す事も我等の心の内にをはします」――仏ということも、われら凡夫の心の中におられる――と。
 しかし、そのことが、凡夫にはなかなか信じられない。大聖人は″まつげが近すぎて見えないように、凡夫は自身の心の内に仏がおられることを知らない″と嘆かれた。そして、″桜のたとえ″をもって説かれている。
 すなわち、凡夫の生命に仏が宿っていることを、「さくらはをもしろき物・木の中よりさきいづ」――桜は目の前がパッと開けるように明るくすばらしいものであるが、黒くゴツゴツした木の中から咲き出る――と、たとえをもって、わかりやすく示されたのである。
 ここイギリスにも、春には美しき桜の園が広がる。
 私どもは今、イギリスに、世界に、仏界という、至上の「平和」と「幸福」の桜の花を満開に咲き誇らせようとしている。人々が憩い、蘇生し、希望の人生を出発しゆく、妙法の″花ざかりの森″の造営に汗を流しているのである。
 このように大聖人は、どこか遠いところ、自身の生活と生命を離れたところに「仏」や「法」を求めるのは迷いであることを、多くの御書で強く教えてくださっている。
 「塔婆」も、大聖人の仏法では本来″わが身が塔婆なり″と教えておられる。
 法華経の「見宝塔品」についての「御義口伝」では「妙法蓮華の見なれば十界の衆生・三千の群類・皆自身の塔婆を見るなり」――「見宝塔」すなわち、大地から涌出した「宝塔を見る」とは妙法蓮華の上の「見る」であるから、地獄から仏界までの十界の衆生、一念三千の当体である一切衆生が、ことごとく「わが身の塔婆(宝塔)を見る」ことである――と仰せである。
 ここでの「塔婆」とは、「宝塔」の意義であり、大聖人は″われ宝塔なり、塔婆なり″と見ることが、法華経の「見宝塔品」の真義であることを強調しておられる。
 塔婆は率塔婆そとばの略であるが、率塔婆とは本来、インドの「ストゥーパ」(塔)の音訳からきている。もともと「積み重ねる」意味があり、土や石を積み重ねて塔を作ったわけである。
 それらを背景に、法華経では、壮麗な七宝の「宝塔」が説かれるが、末法においては、別していえば御本尊が宝塔であられる。
 また、総じて「宝塔」とは「末法に入つて法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賤上下をえらばず南無妙法蓮華経と・となうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり」と。
 ――末法に入って法華経(御本尊)を受持する男女の姿よりほかには宝塔はない。もし、そうであれば、立場が貴いとか賤しいとか、上とか下とかとは無関係に、すべて南無妙法蓮華経と唱える者はわが身が宝塔であり、また、わが身が多宝如来である――。
 御本尊を信じ、妙法流布に進む私どもが「宝塔」であるとの御断言と拝される。
 また「法界の塔婆にして十法界即塔婆なり」――われら衆生の生命は十法界の塔婆であり、地獄から仏までの十法界が即塔婆である――と。
 全宇宙が宝塔(塔婆)であり、小宇宙であるわが身も仏の当体としての宝塔(塔婆)なのである。
 少々、むずかしい話になったが、大切なことは、現実に「我が身宝塔なり」と輝くことである。同時に、世界に幾百千万人、幾億人の「宝の塔(塔婆)」を林立させることである。それが大聖人の御遺命である。その御遺命をイギリスに、ヨーロッパに営々として実現されてきたのが皆さまである。まさに如来の使いであられる。尊貴なる、また不思議なる地涌の勇士なのである。

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