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日蓮大聖人・池田大作

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海外派遣メンバー、各部代表者協議会 「人間」を見よ!善は「人格」に現れる

1991.4.12 スピーチ(1991.1〜)(池田大作全集第76巻)

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1  偽善・独善の「悪」と戦った喜劇王モリエール
 本日は、海外派遣を予定されている方々と、各分野の代表の方々の集いである。多様なメンバーが集まっている時には、むずかしい話はいけない(笑い)。わかりやすい、鮮明な印象の話がよいと思う。そこで一つの劇をとおして、少々語っておきたい。
 「二十世紀の喜劇王」チャップリンについては、何度かお話しした。では、それ以前のヨーロッパの喜劇王はだれか? 投票すれば、おそらく″当選確実″(笑い)なのが、モリエール(一六二二年〜七三年)である。
 彼は、フランスのルイ十四世時代、いわゆる″芸術の黄金時代″のずばぬけた「金の塔」の一人だった。
 一九八九年六月、私はパリの「フランス学士院」で講演した。会場となった学士院会議場の壁には、フランスを代表する文化人、芸術家の像が並んでいた。その中に、同時代のラシーヌ(悲劇作家)、コルネーユ(悲劇作家)と並んで、このモリエールの彫像もあった。
 モリエールは、またフランスの″演劇の学士院″ともいうべき「国立劇場」(コメディー・フランセーズ)の、淵源となった人でもある。別名「モリエールの家」と呼ばれる国立劇場は、モリエールの死後、彼の劇団をもとに創立されたものである。
2  このように、今でこそ最高峰の芸術家として敬愛されているが、生前のモリエールはつねに迫害の暴風のなかにいた。それはチャップリンと同様、世の中の偽善者や策謀家、悪徳の有力者を痛烈に笑いとばしたからである。
 「喜劇の職分は、人をたのしましめつつこれを矯正することにあります」(『タルチェフ』川口篤訳、『世界文学全集〈第三期〉』3所収、河出書房新社)
 モリエールは、この信念でフランス中に笑いをふりまいた。人を楽しませるというサービス精神で、人を愉快な気分にさせながら、人を高めることを目的としたのである。こうして、当時は悲劇よりいちだん低く見られていた喜劇の地位を高めた。
 彼が笑いの対象にしたのは、守銭奴、えせ学者、やぶ医者、権力を振り回す頑固親爺など数多いが、いちばん反響が大きかったのは、えせ宗教家を描いた『タルチュフ またの名ぺてん師』である。
 この作品について述べた一文の中で、モリエールは″えせ宗教家″たちを、こう痛罵している。
 「偽りの信仰は疑いもなく最も世に行われ、最も不快な最も危険な悪徳であります」「信仰の贋金つかいどものうわべをつつんだ一切の欺瞞」(同前)――と。
 世間に流通している信仰の″贋金″ほど危険なものはないというのである。
 モリエールが危険を承知で上演したこの喜劇(『タルチュフ』)は、チャップリンにとつての映画『独裁者』に当たろう。
3  『タルチュフ』――ぺてん師の悪の正体を見破れ
 そのあらすじは――。
 ある財産家の家に、聖職者まがいの一人の「敬神家」「偽信心家」が入りこんだ。一家の主人が、彼を狂信してしまったのである。主人とその母以外の家族は、だれもこのぺてん師を信じない。二人は、彼タルチュフを聖人のようにあがめ、下にもおかぬ崇拝ぶりである。
 他の人間には、彼の「わざとらしい大げさな祈り」「しかめっ面の君子気どり」「口うるさく、何にでもケチをつける偏狭さ」が、我慢できない。皆、「見えすいた偽善」だと知っている。明らかに「財産ねらい」なのだ。
 しかし、すっかりたぶらかされた主人はとうとう、すでに婚約者までいる自分の娘を、このぺてん師に与えようと決める。だれが反対しても耳を貸さない。それどころか、ぺてん師に反対する者を「罰当たり」とののしり、「信心がない」と非難して怒りだす。
 主人の妻は、かわいい娘がこんな偽善者と結婚するなんてとんでもないと、タルチュフに思いとどまるよう直接話す。ところが以前から、この美しい夫人によこしまな心をもっていたぺてん師は、二人きりで話す機会を利用して、言葉たくみに誘惑する。根は放埒そのものの悪人であった。
 この様子を、家の息子(娘の兄)が物陰で聞いていた。彼は飛び出していって、えせ宗教家を批判し、抗議する。
 「このぺてん師は、ほんとに長いあいだ、お父さんを手玉に取ってきました」「お父さんがこんなやつの食いものにされるのは、もうたくさん」(『タルチュフ またの名ぺてん師』鈴木力衛訳、『世界古典文学全集47 モリエール』所収、筑摩書房。以下、引用は同書から)
 息子は、真実を明らかにする絶好のチャンスと思い、父親にぺてん師の「破廉恥な行為」をぶちまける。白い仮面の下の腐敗――。これで父も、もう目が覚めるだろう、と。

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