Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第一回中国総会 勝つ人生は愉快なり、幸福なり

1991.3.9 スピーチ(1991.1〜)(池田大作全集第76巻)

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1  勝利への労苦は福徳に変わる
 ″春到来″を告げる、すばらしい合唱でした。楽しい歌声は幸福の一つの証です。本当にありがとう(拍手)。(各部の代表による広島混声合唱団が、″春の歌メドレー″と、名誉会長が広島の友に贈った長編詩をモチーフにした創作曲「凱旋の歌声」を披露した)
 そして、ここ広島と岡山、山口、鳥取、島根の五県を結んでの第一回中国総会の開催、おめでとう。たいへんにご苦労さまです。(拍手)
 さて当初、新聞でも予告していた衛星中継が、システムの故障でできなくなり、本日は音声だけでの中継となった。心からおわび申し上げたい。私の責任ではないが(爆笑)。ところが、ものは考えようで、じつは″中国の男性の幹部は、あまリテレビ映りがよくない(笑い)、皆さまに、アップでお見せしなくて、よかったのではないか″と言う人がいる(爆笑)。私は、そんな″人権侵害″のことは言わないが(爆笑)、どうも、大きくうなずいていらっしゃる方が多いのは、どうしたことか。(爆笑、拍手)
2  人生は、ともかく「勝つ」ことである。「勝つ」ということは、人生を愉快にする。幸福にする。満足をもたらす。自身の課題に挑み、一歩一歩勝利する。これほど充実した、愉快なことはない。
 「仏法は勝負」と、大聖人は教えてくださっている。また、一切法はこれ仏法なるがゆえに″一切が勝負″なのである。
 人生もまた、戦いである。同じ戦う一生ならば、後ろ向きよりも、勇んで進んだほうが得である。楽しいし、信心の功徳も大きい。
 ″なぜ自分は、こんなたいへんな所に来てしまったのか″などと嘆くよりも、″苦労が大きいほど勝った喜びも大きい。成長も大きい。充実も大きい。わが人生も大きくなる″と、一念を決めたほうが価値的である。その一念が、苦労をすべて幾百倍、幾千倍もの福徳に変える。
 日蓮大聖人は、門下の富木常忍夫人にあてたお手紙の中で、次のように仰せである。
 「むかしは・ことにわび不楽しく候いし時より・やしなはれまいらせて候へば・ことにをんをも恩重くをもいまいらせ候
 ――昔は、とくに苦しい状況にありました。そのときからあなたに養われておりますから、とくに恩を重く思っております――と。
 大聖人は当時、身延におられた。このころは、身延での御生活もある程度、安定しておられた。そうしたなか、苦境が続き、経済的にもたいへんであられたろう昔のことにふれられ、そのころからずっと檀那(施主)として、大聖人を支えた富木常忍の夫人を「とくに大切に思いますよ」「外護の恩の重さは忘れませんよ」と、あたたかく包んでおられる。
 在家の一婦人の御供養に対して、御本仏は「恩」とまで仰せである。「苦しいころから、支えてくださったことは、今でも忘れていませんよ」と、やさしく語りかけておられる。
 たいへんな時に守ってくれた恩は、絶対に忘れない。これが人間性である。大聖人御みずから教えられた正しき″人の振る舞い″である。その振る舞いに仏法の真髄もある、と大聖人は教えられている。
 自分がたいへんな時は仲良くし、豊かになれば、世話になった人も捨て去る。そんな行動は、人間としての道からも、仏法者としての道からもはずれている。
 この御文にこめられた大聖人のお心に背く門下がいれば、大聖人に対する師敵対であると信ずる。(拍手)
3  チャップリンの一生を支えた母の教え
 さて、これまで何度かチャップリンの話をさせていただいたが、最近は、テレビでも作品が連続放映されるなど、いよいよ人気は高いようだ。不思議な、不滅の魅力をもっている。
 チャップリンの話が続いて恐縮だが、先日、会合の席で、広島ではチャップリンのお母さんの話をすると約束してしまったし(笑い)、多くの方からの問い合わせや要望にお応えする意味からも、少々お話ししたい。(拍手)
 人生は劇である。劇には「喜劇」と「悲劇」がある。その定義は、どう違うのか。
 学問的には――などというと、むずかしそうだが(笑い)、いたって明快である。「結末が幸福なら喜劇、結末が不幸なら悲劇」と。たいへんわかりやすい(爆笑)。途中は関係ないのである。
 人生もまた、結末いかんで悲劇にもなれば、喜劇にもなる。
 人生の途中の姿だけを見て、うらやましがつたり、反対にバカにしたりする。それでは、人生の真実はわからない。
 実業家として一つの頂点を極めながら、最晩年になって汚職等で捕まる人もいる。社会の指導的立場にありながら、庶民を見くだす傲慢さゆえに、陰で悪行をし、″身から出たサビ″を、裁判で追及される人もいる――これは、悲劇である。たとえ途中がよいように見えても、最後にどうなるかはわからない。その最終の勝利のための、私どもの信仰なのである。
 戸田先生も、よく言われていた。″死ぬ四、五年前から本当の幸福を味わえれば、その人生は、幸福だったといえる″と。
 信心の醍醐味というか、人生の総仕上げは、必ず「衆生所遊楽」「所願満足」の、くめども尽きぬ大功徳の生活となっていく。その意味で、苦しいうちは「まだ死なないな、大丈夫!」と安心してよいともいえる(爆笑)。戸田先生も、そう教えられていた。

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