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日蓮大聖人・池田大作

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海外派遣メンバー協議会 現実の大地から″夢″を掘り出せ

1991.2.14 スピーチ(1991.1〜)(池田大作全集第76巻)

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1  学会は不変の王道を歩む
 「世界広宣流布」は御本仏の御遺命である。それを現実に行っているのはSGI(創価学会インタナショナル)である。御本仏は、どれほどお喜びであろうか。この誉れは無上であり、永遠である。
 「御義口伝」には「此の法華経を閻浮提に行ずることは普賢菩薩の威神の力に依るなり、此の経の広宣流布することは普賢菩薩の守護なるべきなり」――この法華経を全世界に行じていくことは、普賢菩薩の威光ある優れた力によるのである。この経が世界に広宣流布することは、必ず普賢菩薩の守護によるのである――と仰せである。
 ここには甚深のお心が拝されるが、普賢菩薩の「普」とは、″あまねし″と読む。普遍性のある″不変の真理″(不変真如の理)を意味すると「御義口伝」には説かれている。また「賢」とは、″かしこし″と読む。「御義口伝」では″智慧の義″(随縁真如の智)とされる。
 「普」が普遍にして変わらない仏法の真理を意味し、「賢」は、その真理にもとづいたうえで、たとえば、その国と社会、その時代、その状況によって、自在に発揮するべき智慧を意味すると拝される。
 「菩薩」とは、民衆と社会の中に飛び込んで戦う″慈悲の行動者″とも言えよう。
 ともあれ、世界への広宣流布には、″英知の力″が不可欠である。普遍性のある哲理と、豊かな知恵の両方があって初めて、多種多様な民族、歴史、伝統をもつ世界の人々の心をとらえることができる。また、あたたかい慈愛、人間性あふれる行動があってこそ「菩薩」の働きとなる。
 人類普遍の聖典たる御書を根本とせず、変転する状況に追随する無節操は、「普=あまねし」の正反対である。文化、学問への偏見や、広布のための柔軟な知恵を嫌う硬直性は、「賢=かしこし」の正反対である。無慈悲や人間蔑視、権威主義、弘法の行動なき安直さと傲慢は、「菩薩」の正反対である。
 万が一にも、そのような傾向性が出てくれば、世界広宣流布ができるはずがない。御本仏のお心を踏みにじってしまうことになろう。
 こうした点からも、SGIが進めている献身の弘法、そして仏法を基調にした文化・平和・教育の推進の運動が、どれほど正しい軌道であるかを確信していただきたい。
2  権力の魔性を描いた『動物農場』
 イギリス(スコットランド)のある哲学者の言葉に「無知は恐怖の母」とある。
 知らないから恐れるし、惑う。英知の光で闇を払ってしまえば、何ものも恐れることはない。迷う心配もない。その「英知」のために、きょうも少々、語っておきたい。
 イギリスの作家ジョージ・オーウェル(一九〇三年〜五〇年。管理社会の暗黒の未来を描いた小説『一九八四年』で著名)。彼の代表作の一つに、寓話『動物農場』がある。(工藤昭雄訳、『世界文学全集』69所収、筑摩書房、参照)
 長年、「人間」という暴君に支配され、しいたげられていた動物たちが、ついに革命を起こす。
 「動物に自由と平等を!」――イギリスのある農場に起こった、この″民主革命″は成功した。人間の農場主は追い出され、新たに「動物農場」の旗揚げをした。
 彼らは、皆で決めた「動物主義」の原則にしたがって、自治を始めた。皆、幸せだった。誇りに燃えていた。
 「すべての動物は平等である」。この永遠の指針のもと民主的な理想郷をつくるのだ! 人間たちからの逆襲も、全員の奮闘で見事、撃退した。
3  ところが――時とともに、平等の原則は崩れてくる。
 それまで、動物みんなの合議で運営されていた農場が、いつしか、リーダーを自認する豚たちの手で、何もかも決定されるようになっていった。
 初めはささいな変化だった。全員のためのミルクが、ある朝、こっそり消えたのである。
 やがて真相がわかった。豚たちが、自分のエサにまぜていたのだ。彼らは皆のリンゴも横領していた。豚たちは弁明した。詭弁では、だれもかなわない。
 ――われわれ豚は、リーダーとして頭脳労働をしている。農場の未来は、すべてわれわれ豚の双肩にかかっている。そこで、いやいやながらも、ミルクをたくさん飲み、リンゴを食べて、栄養を取り、諸君の福祉に努めねばならないのだ、と。
 自分たち″豚族″を敬い、大事にしてもらいたい。ミルクとリンゴをかすめとったように見えるかもしれないが――事実そのとおりなのだが――それもすべて農場のためだというのである。
 ひとのいい動物たちは、皆、だまされた。
 いったん、こうなると、あとは歯止めがきかない。豚は″特権階級″になった。堕落するのは早かった。人間たちが残した豪華な家で眠り、禁じられている酒を飲み、昼間から酔っぱらっていた。苦しい仕事は、すべて他の動物たちにやらせ、自分たちは何といっても豚なのだから、偉いのだと胸を張った。
 本来、他の人よりも苦労するゆえに、リーダーは尊敬を受ける。大切なのは、立場ではなく行動である。ところが、豚たちは、俺たちは特別なのだから、何もしなくても、また何をしても許され、尊敬されるべきなのだというのである。
 とうとう彼らは、根本原則の「動物主義」を勝手に修正した。
 「すべての動物は平等である」――このあとに、豚たちは、こっそりと、こう書き加えたのである。「しかし、ある動物(豚のこと)はほかのものよりも、もっと平等である」
 自分たちの都合に合わせて、規約を少しだけ変更する。これが権力のじ常套手段である。よく理解しないと、だまされてしまう。
 その″ほんの少しの変更″が悲劇的結末へとエスカレートしていく。そうなっては手遅れである。悪の芽は早いうちから徹底的に摘まねばならない。
 他にも「どんな動物でも酒を飲むべからず」は「どんな動物も過度に酒を飲むべからず」に、「どんな動物もベッドに寝るべからず」は「どんな動物もシーツをかけたベッドに寝るべからず」に、「どんな動物もほかの動物を殺すべからず」は「どんな動物も理由なくしてほかの動物を殺すべからず」に、こっそり書き換えられた。そして豚たちだけが酒を飲み、安楽なベッドに寝、処罰と称して動物を殺した。

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