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日蓮大聖人・池田大作

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沖縄・世界平和祈念勤行会 勝利の歴史、幸福の歴史を残せ

1991.2.3 スピーチ(1991.1〜)(池田大作全集第76巻)

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1  湾岸戦争の早期終結を深く祈念
 三年ぶりに、沖縄を訪問させていただいた。お元気な皆さまにお会いでき、本当にうれしい。(拍手)
 ただ今、皆さまと三座の勤行を行った。沖縄の皆さまのご多幸を、私は御本尊に深くご祈念申し上げた。とともに、ご存じのとおり、中東の湾岸戦争は、残念ながら戦火がいっそう拡大しつつある。そこで本日は、「平和の要塞」である、ここ沖縄の地で、皆さまとともに、一日も早い戦争終結と「世界平和」を祈念させていただいた。
 また、香港、シンガポール、マレーシア、フィリピン、タイ、インドの理事長等の方々から、沖縄の皆さま、そして日本の皆さまに「くれぐれもよろしくお伝えください。皆、元気です。いっさい心配ありません。私たちも頑張っています。皆さまもどうか頑張ってください」との伝言が寄せられた。そのままお伝えさせていただく。(拍手)
 さらにきようは、アジアの代表約五十人も参加しておられる。遠いところ、はるばる、ご苦労さま。(拍手)
 さきほど、研修道場内を回らせていただいたが、すべてにわたって、見事に整備をしてくださっていた。隅々にいたるまで、皆さまの深い真心が感じられた。心から御礼申し上げたい。本当にありがとう。(拍手)
 私もこの一週間、沖縄のために、さまざまな角度からお話もし、全魂をこめて皆さまを応援していきたい。いろいろお世話になることと思うが、どうかよろしくお願い申し上げたい。(拍手)
2  世界の激動のなか「立正安国」ヘ
 私が沖縄を初訪問したのは一九六〇年(昭和三十五年)七月十六日。第三代会長就任(五月三日)後、まもなくであった。
 戦争の悲惨さをもっとも深く体験した沖縄。私は一日も早く、この地を訪れたかった。この沖縄から、世界の平和への潮流を起こしていこうと心に期していた。
 七月十六日は、日蓮大聖人が「立正安国論」を上呈された日であるが、私は、沖縄を「立正安国」の模範の天地に築き上げたかった。もっとも苦しみをなめたところが、もっとも幸せにならねばならない。なる資格があるし、必ずなっていく――これが仏法である。
 沖縄を″戦争の要塞″から″平和の要塞″へと転換していく。それが、大慈大悲の御本仏のお心を拝しての、必然の実践であると私は確信していた。
3  このころ、とくに一九六〇年五月ごろは、内外ともに激動の時であった。
 国内では、新安保条約が強行採決された(五月二〇日未明)。国論を二分し、翌月には痛ましい犠牲者まで出した(東大生・樺美智子さん)。条約への賛否の考え方はさまざまであり、ここで論じるものではないが、これによって、ともかく日本は米ソの冷戦構造に、名実ともにがっちりと組み込まれたわけである。
 北京では安保反対の百万人集会が行われた。ソ連との「平和条約」も大きく遠のいた。
 一方、五月一日には、米ソの″雪どけ″への期待を吹き飛ばす事件が起こった。アメリカの飛行機U2が、ソ連領空を侵犯したスパイ機というかどで、ウラル上空で撃墜されたのである。このU2機の日本駐留をソ連は非難し、U2機の基地には報復攻撃すると声明(五月二〇日)。冷戦の渦に巻き込まれた実感を、多くの国民がもった。基地の島・沖縄ではなおさらであろう。
 また、五月二十四日には、チリ地震による津波が、太平洋沿岸に襲来、死者・行方不明者百三十九人を出した。
 三十一年前――核兵器の競争という″狂気″に世界が脅かされていた。加えて自然災害があり、病苦(ポリオ〈小児マヒ〉の流行、その他)、生活苦があった。
 こうしたなか、「立正安国」への本格的な出発を、創価学会は始めたのである。

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