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日蓮大聖人・池田大作

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婦人部最高協議会 仏法は豊かな人間性に脈動

1990.12.23 スピーチ(1990.8〜)(池田大作全集第75巻巻)

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1  現代は「知の力」の時代
 本日は、秋谷会長、森田理事長も出席しての、婦人部最高協議会である。広宣流布の前進のため、また友の幸福のために、何でも自由に語り合っていただきたい。
 きょうは、少しむずかしいかもしれないが、宗教の布教と知性という問題について、一側面からふれておきたい。
 今やまさに「知力の時代」である。よく「知は力なり」というが、じっは「知は力以上のもの」でもある。これは十八世紀の英国の大学者サミュエル・ジョンソンの言葉である。
 今年、もっとも話題になった本の一つに『パワーシフト』(A・トフラー)がある。題名は″権力(パワー)の移行(シフト)″を意味する。その要点は、暴力(軍事力)、富(経済力)、知識(情報、技術、文化)の三つの″力(パワー)″のうち、現代は「知の力」が第一になりつつある時代だという分析である。その波に乗り遅れたところは、敗北しかない、と。
 著者トフラーは、ソ連・東欧の経済的没落の要因も、ハイテク時代の「知の進歩」についてこれなかった点に見ているようだ。
 学会は、この「知の時代」を早くから先取りしてきた。私が数多くスピーチし、また世界の識者と対談してきたのも、一つにはそのためである。さらに青年部をはじめ、各種「大学校」では、仏法を基調に、幅広く「知の世界」を広げている。
 これからの国際化時代、また世界広布を考えるうえでも、この「知の力」はきわめて重要になってくる。「知性」には国境を超えた普遍性があるからだ。
2  中国におけるキリスト教の興亡
 宗教の布教と知性の問題で思い出すのは、中国へのキリスト教布教の歴史である。くわしく言うと複雑すぎるので、ごく簡潔に言うと――。
 中国にはすでに「唐」の時代(七〜九世紀)、キリスト教の一派(ネストリウス派、景教と呼ばれた)が盛んに信仰されていた。その後、「元」の時代(十三〜十四世紀)もかなりの普及があった。あまり知られてないことだが、ジンギス汗の妃の一人も、また元の世祖フビライ(ジンンギス汗の孫)の母も、熱心なキリスト教徒であった。
 「元」が滅び、「明」の時代は、キリスト教はまったくふるわなかった。どちらかといえば、外国文化に対し排他的な時代である。しかし「明」の末期、一人の″中興の祖″が現れる。有名なマテオ・リッチ(一五五二年〜一六一〇年)である。
 イタリア生まれの彼は、東方伝道を決意して、二十五歳の時、インドに到着。次いでマカオに移った。日本に来たフランシスコ・ザビエルらと同じ、イエズス会の宣教師であった。
 マカオで彼は中国語を学んだ。中国に布教するにはどうしても中国の文化に精通しなければならない――と。
 宗教は「人間」を相手にするものである。そして現実には、「人間」は「文化」を離れては生活できない。理解しようと努めるのは当然であろう。
 それだけではない。彼は考えた。中国人がいちばん尊敬するのは何か?
 「それは学問だ」「文化だ」――そこで彼は、学者としての名声を高めるべく努力した。利瑪竇りまとうという中国名も名乗った。
 やがて大陸内部に居住することにも成功。少しずつ、社会の指導層である読書人たちに理解者を増やした。″新しい法″を説く人への警戒心が解けてきた。
 「これほどの学者が言うのだから」と、皆、彼を信頼したのである。彼は、珍しい「世界地図」「天体儀」「日時計」「砂時計」などを展示し、人々の関心を高めた。さらに、新しい科学的知識や「幾何学」を教えたりした。現在、日本でも使われている、この「幾何」という語は、彼が作った新語である。
 また彼は、はじめ仏教の僧侶風の格好をしていたが、たまたま当時の僧侶は、中国人社会から尊敬されておらず、リッチは後に衣服を改めている。
 「布教といっても現地の人々の信頼と尊敬が第一だ」――。漢文による著述も行い、名声の上がったリッチはついに北京に入り、皇帝(万暦帝)から布教の許しを得た(一六〇一年)。祖国を出発してから二十四年後、大陸に移住してから十八年後のことであった。
3  こうしてリッチは「知の力」で、基礎をつくった。彼の死後も、その考えを受け継ぎ、宣教師には優れた学者が多かった。「明」が滅び王朝が「清」になっても、それは変わらなかった。
 ところが――一七二三年、キリスト教が中国で禁止される。リッチが布教の許可を得て約百二十年後である。この禁教令が解かれるのは、そのまた百二十年後(一八四四年)となる。
 百二十年もの間、まったく布教できなかったのである。いったい何が起こったのか。
 それは、リッチの後継者たちは「ともかく中国の文化を大切に」という伝統を持っていた。リッチも中国文明を深く敬愛していた。しかし、後から中国に伝道に来た他の宣教師たちは、中国人の行っている風習を軽蔑し、それを禁じようとしたのである。その中心には、イタリアでガリレオたち科学者を迫害したのと同じ排他的一派があった。こうした態度が中国人の反発を買い、ついに禁教・追放にまでいたってしまう。

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