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日蓮大聖人・池田大作

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第三十六回本部幹部会・第一回壮年部総会… わが「心の王国」の宝を人々に

1990.12.16 スピーチ(1990.8〜)(池田大作全集第75巻巻)

前後
1  魂の真実を時代に奏でたベートーヴェン
 「歓喜の歌」のすばらしい合唱、ありがとう!(拍手)(=大田区混成合唱団が披露)
 「歓喜の歌」という名前がいい。リズムがたいへんすばらしい。内容はよくわからないけれど(笑い)。大田も、ずいぶん変わったな(笑い)と、私は感動した。(拍手)
 きょうは、じつはベートーヴェンの誕生日である。一七七〇年生まれだから、ちょうど生誕二百二十年のその日に当たる。この記念日に、青春のふるさと大田で、わが青春の調べである彼の曲を聴くことができ、本当にうれしい。(拍手)
2  ベートーヴェンは、繰り返し語っていた。「わが王国は、天空にあり」と。
 たとえば一八一四年二月の手紙には「僕はといえば、そうだ、なんとわが王国は大気の中にある。しばしば風のごとく音が響きわたる。魂のなかでも響きわたる」(新編『ベ―トーヴェンの手紙』下、小松雄一郎編訳、岩波文庫)と。ロマン・ロランは、これを「広大な内面の王国」ととらえている。(『後期の四重奏曲』吉田秀和・山本顕一訳、『ロマン・ロラン全集』25所収、みすず書房)
 果てしなく広がる高貴なる青空。その高みに、わが精神のすみかはある。地上には策略や嫉妬や、まやかしが充満している。しかし、それらの喧騒も、わが「天空の王国」には決して届かないのだ――と。強烈な自負であった。
 そして「わたしにとっては精神の王国の方が大切であり、それはあらゆる宗教的世俗的君主国の上に聳えるものであります」(一八一四年秋の手紙。前掲『ベートーヴェンの手紙』)と誇らかに語っている。
 自分の「精神の王国」は、どんな「宗教的王国」をも、「世俗的王国」をも見おろして、堂々とそびえ立っているというのである。
 ――表面的に見れば、まず彼は病身であった。耳の病以外にも、たくさんの病気が彼を苦しめた。彼は裕福でもなかった。いつも家計のことで悩み、経済的に苦闘していた。
 それまでの作曲家とは違って、彼は「精神の独立のためには、経済的独立が必要だ」と考えていた。貴族等のパトロン(後援者)に完全に依存した生活を否定し、自分の作曲による収入を基本とした生活を選び取った。
 自分は自分で生きぬいてみせる。自分の力で不滅の音楽を残すのだ。これは革新的な決意であった。同時に、きわめて困難な道でもあった。そして彼は、孤独であった。結婚への努力はすべて失敗した。
 独り身の彼は唯一、甥(カルル。亡くなった弟の息子)を″わが子″として、愛情をそそいだ。ところが、この甥も、ことごとく彼の気持ちに逆らい、彼を苦しめた。賭博場に入りびたり、ついには自殺未遂の事件まで起こす。彼の寿命は、このただ一人の身寄りのために、確実に縮まったといわれている。
 周囲も彼を理解しなかった。「第九」すら、二回目の演奏会からは、人々は離れてしまった。ひどい不人気だった。後には「野蛮な音楽」などという評論が堂々と新聞に出たりした(=一八二五年、ロンドンでの初演に対して)。今から見れば考えられないことであるが――。まじめに知ろうともしない無認識の評価が、この偉人を攻撃していた。これが世の常である。
3  ベートーヴェンの取り巻きにも、悪い人間がいた。彼の名声と才能を利用して、側近然として、人々を誤解させた。「私こそが、彼の″真実″を知っているのだ」と――。ベートーヴェンのほうでは大いに迷惑していた。
 病み、貧しく、孤独だった彼。しかし、その瞳はつねにはるか上を、かなたを見つめていた。彼は「天空の王国」の王者であった。この内面の帝国では、彼は皇帝ナポレオンをも見おろす″精神の皇帝″であった。低次元の感情やいざこざなど、とうてい届きえぬ空中に、天空に、彼の魂の歌は鳴り響き、舞いわたっていた。
 御書には「賢聖は罵詈して試みるなるべし」――賢人、聖人であるかどうかは、ののしって、ためしてみるものである――と仰せである。
 一般にも、うんと苦労し、迫害を耐えぬいてこそ、初めて本物の″金″であることが証明される。迫害と苦闘がないのは、またそれらに敗れるのは、所詮は″石″なのである。たたかれ、裏切られ、デマばかり流され、ありとあらゆる圧迫を受け――波瀾万丈の人生からこそ、本当に偉大なものは鍛え出されてくる。私も、この決心で生きぬいてきた。(拍手)

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