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日蓮大聖人・池田大作

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静岡県最高協議会 世界は「新しい人間」を待望

1990.12.3 スピーチ(1990.8〜)(池田大作全集第75巻巻)

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1  日本文化の根底に流れる法華経
 ここ静岡・伊豆の伊東は、ご承知のとおり、日蓮大聖人ゆかりの天地である。
 大聖人は、法華経ゆえに、この地に流罪になられたことを、「昼夜十二時に法華経を修行し奉ると存じ候」――法華経のために難にあっているのだから、昼夜二十四時間、休みなく法華経を修行していると思っています――とされ、「人間に生を受けて是れ程の悦びは何事か候べき」――人間に生を受けて、これほどの喜びが他にあるだろうか。決してない――との悠々たる大境界を述べておられる。
 御本仏日蓮大聖人は、ここ伊東で、法華経を身読する「法華経の行者」としてのご境界を示されたのである。
 ここには甚深の意義がある。一つには、それまでも日本では法華経が広く信仰され、「法華経の持者(持経者)」は数多くいた。しかし、伝教大師を除いて彼らは「法華経の行者」ではなかった。大聖人がご出現になり、初めて法華経の仏の未来記を身読されたのである。
2  そのことをふまえたうえで、法華経が、いかに広く日本の社会に浸透していたか、その一端を見ておきたい。
 宮中でも聖徳太子以来、法華経は尊崇の中心であった。当然、いわゆる宮中文化、貴族文化の多くも、法華経を根底としている。その伝統は長く続き、日本文化の一つの基調をつくってきた。
 短歌などの詩歌にも、法華経が多く歌われ、二十八品のそれぞれの内容を詠むことも伝統になっていた。
 たとえば後白河法皇(一一二七年〜九二年。第七十七代の天皇。在位三年だが三十余年にわたって院政を執る)の勅撰による今様集『梁塵秘抄』には、法華経の各品を歌った「法文歌」がある。
 今様とは「現代風」の意味で、平安期当時の流行歌のことである。法文歌の作者は不明(詠み人知らず)だが、仏教にそうとう深い教養をもつ貴族か僧侶であろうとされている。
 『梁塵秘抄』は全体では約五百六十首。そのうち法文歌は二百二十首で、法華経二十八品の歌は百十五首を占める(無量義経と普賢経の歌を含めると百十七首)。文底仏法の正体を知らなかったとはいえ、彼らなりに法華経の偉大さに深く心を引かれていたのであろう。
 法文歌は、おおむね七・五音または八・五音の四句形式の仏教讃歌である。歌い方の面からは「沙羅林」と呼ばれた。内容からいつて「仏」「法」「僧」「雑」に大きく分けられている。そのうち「法」すなわち経典の趣旨を述べる歌は、華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃という、天台教学の五時教判の順になっている。
3  二十八品歌のうち「勧持品」では次の二首が挙げられている。
 「我が身は夢に劣らねど、無上道をぞ惜しむべき、命は譬の如くなり、如来付嘱はあやまたじ」(わが身は夢に劣らずはかないものだが、無上道である妙法だけは惜しむべきである。生命は夢や露にたとえられるように、はかないゆえに執着はない。それよりも法華経を未来に弘めよとの如来の付嘱は必ず果たしていこう)
 「法華を行ふ人は皆、忍辱鎧を身に着つつ、露の命を愛せずて、蓮の上にのぼるべし」(法華経の教えを守り弘める人はみな、「忍辱の鎧」〈難を耐え忍ぶ、鎧のごとく固い心〉を身につけ、露のようにはかない命を惜しまず修行して、その功徳によって霊山の蓮の上に生まれることであろう)
 この二首は、勧持品の次の一節をもとにして、詠んだものと思われる。
 「我等仏を敬信して 当に忍辱の鎧を著るべし 是の経を説かんが為の故に 此の諸の難事を忍ばん 我身命を愛せず 但無上道を惜しむ 我等来世に於いて 仏の所嘱を護持せん」(開結四四二㌻)
 「三類の強敵」を乗り越えて、末世に妙法を弘通していくことを誓った文である。たしかに勧持品の一つの核心をとらえている。宮中でも、こうした歌が「歌謡」として、節をつけて詠唱されていたわけである。

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