Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

ドクター部、自樺会、自樺グループ合同研… 弱者を守りゆく「人格」の名医に

1990.8.17 スピーチ(1990.8〜)(池田大作全集第75巻巻)

前後
1  人類の悪の流転を打破
 ドクター部、白樺会、白樺グループの研修会、本当にご苦労さまです。短い期間ではあっても、有意義な、楽しい、生命をさわやかに刷新しゆく研修会であっていただきたい。今回を出発として、良き伝統を築いていただきたいと願っている。
 本日は、その出発の意義をこめて、皆さまの後輩のため、後世のためにも、一言あいさつしておきたい。
 人生は矛盾だらけである。社会も不公正がまかりとおっている。表向きはともかく、その実態は、動物的な″弱肉強食″の原則に支配されているのが現実である。戦争は、その象徴である。
 一般の世間にあっても、強いものは弱者を見くだし、いじめる。弱い者は強者にへつらいながら、より弱い者を苦しめる。悪の連鎖というか、太古以来、変わらざる人類の宿業であり、流転である。
 本来は悩める人を守り、救うべき立場の人間も、反対にその立場を利用して、人々を傲慢に見おろし、搾取し、その犠牲の上に利己的な保身を貪る。悲しいことであるが、むしろ社会の大半がそうである、と言わざるをえない面がある。
 政治家は国民に対して、いばる。だまし、名聞と名利を得ようとする。弁護士は悩み苦しむ被告(人)をもっとも守る立場にある。にもかかわらず反対に被告(人)を利用して自分の利益を得ようとする人もいる。学者は学生や後進に対して、高圧的に臨む。育てるのではなく、利用しようとす
 る人もいるようだ。
 一般的に、聖職者は、宗教の権威をカサに、信者の上に君臨する。傲慢に信者を見くだし、手段にしていく。大国は小国を、大企業は中小企業を、軽視する。
 もちろん、すべてがそうというわけではないが、往々にしてそう言われてきたし、事実、そうした場合があまりにも多い。残念なことだが、これが現実社会の一側面である。
 皆さま方は当然、別として(笑い)、医者、医療関係者も例外ではない。悩んでいる患者に対して、自分より下の存在のように見おろしていく場合がある。
 ある先進国の方から、その国の医学界内の堕落ぶりを聞いたことがある。
 ガンでもない患者を、偽ってガンと思いこませ、切除するふりをして高額の治療費をだまし取る。戦慄すべき非道な行為であると、血を吐くような思いで訴えていた。SGI(創価学会インタナショナル)による仏法の流布をもって、こうした極悪を革命してもらう以外にない、と。
2  仏法では「十界互具」と説く。そこには不可思議なる人生、生命への深遠な洞察がある。
 それはそれとして、医者といえば、本来は菩薩界の働きをする立場である。しかし白衣を着、形は菩薩界でも、心は餓鬼界の場合がある。政治家にしても、バッジをつけ、形は梵天・帝釈等の天上界でも、心は修羅界、畜生界等の場合がある。そうした例はいくらでもある。つまり、姿形と心が一致していない。偽りがある。
 この矛盾とウソをどうするのか。悪の仕組みに対して、あきらめる以外にないのか。体制を変えたとしても、「人間」が変わらない以上、また同じ悲劇が繰り返されるだけであろう。
 この人類の苦悩の流転をとどめ、打破するために立ち上がったのが、釈尊である。また根本的には日蓮大聖人であられる。
 三悪道(地獄・餓鬼・畜生界)、四悪趣(三悪道と修羅界)の、醜い悪や闘争の世界を、真実の天上界、菩薩界、仏界の社会へと転換しゆくのが「正法」であり、その実践が「広宣流布」なのである。
 その根本的な変革なくしては、人類史は永遠に闇の世界である。人間社会は、″弱肉強食″の動物の世界と何ら変わりがないことになる。
 一般的にも、立派な人物であるならば、決して人を見くだしたり、いばったりはしない。むしろ、多くの人が心で思っていても言えない権威的な人に対しても、言うべきことを厳然と言っていく。これが本当に立派な人である。
 また、これこそ仏法の精神であり、真実のヒューマニズムである。弱い立場の人であっても、不正に対して、だれよりも強くなっていく。それが信心の一つの証である。
 私は、弱い立場の人を決していじめてはならないと、つねに叫んできた。みずから、その信念で生きてきたつもりである。むしろ弱い立場の人を厳然と守るために権威をふりかざす人間と、毅然として戦ってきた。それが本当の信心であるし、戸田先生の指導だからだ。
 弱者を守り、大切にしていく人が正義の勇者である。弱者をいじめ、苦しめるのはもっとも下劣な弱者である。弱き人々は、いたわってあげねばならない。大事にしてあげねばならない。しかし人間の世界は、往々にして本末転倒する。そこに根本的な不幸があることを知らねばならない。
3  真実の勝者とは、敗者とは
 「仏法は勝負」である。ゆえに、勝たなければ幸福はない。そして真の勝利とは、人間としての勝利である。弱い者が泣き寝入りをし、強い者がのさばる。社会の、そうした動物性を百八十度ひっくり返していく勇者こそ、真の勝利者であり、菩薩である。「人間」の名にふさわしい文化と平和の戦士である。また本当の「名医」である。
 権力や権威をカサにきて弱者をいじめる傲慢な心は、じつは自分自身の人間性を踏みにじっているのである。それはもはや、人間としての敗者の証となっていることを知らねばならない。
 絶対に人を見くだしたり、あなどったり、感情的に叱ったりしてはならない。いかなる人もすべて平等であり、最大に尊重していく心を持つべきである。それが、本当の「人格」であると私は思う。まして、妙法という生命変革の根源の法を持った皆さま方は、こうした″人類の進歩″の先頭に立つ方々である。真の「人間」と「人格」の世界を開いていく使命の人々である。この残酷な社会にあって、まことに稀有の、ありがたき存在なのである。
 その自覚がどれだけ深いか。その自覚にふさわしい「人格」の広がりと鍛えが、どこまであるか。いよいよ、各人の、そうした差が、はっきりしてくる時代になったことを知っていただきたい。
 さて、あるマスコミ関係者が語っていた。
 ――世間には、自前の大病院を有している宗教団体もある。しかし学会はもっていない。私はその点を評価し、尊敬する。
 本来、宗教の使命とは、どこまでも内なる″精神″の次元から、人間を救っていくところにあるはずだ。人間が希望を持って生きぬいていくための″精神闘争″″生命闘争″を教えるべきである。
 それが、精神的な教えを説く一方で、病院を建て、金儲けをし、人々を内面から救っていけない自分たちの無力さをごまかしている。これは人間への欺瞞であり、宗教者としての根本の使命を忘れた、堕落の姿といってよい。その点、創価学会は、いわゆる病院というものをもっていない。さまざまに批判されているが、私は学会こそ、宗教者のいき方としてもつとも正しいと思う――と。
 戸田先生(創価学会第二代会長)は「学会は、絶対に病院をつくってはならない」と厳しく戒められていた。学会はあくまでも「信心」で進んでいくのだと――。このことは、宗教人としての自覚と自負がこめられた重要な原則である。

1
1