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日蓮大聖人・池田大作

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「関東会」「東京会」合同研修会 目覚めた民衆の力は偉大

1990.8.7 スピーチ(1990.2〜)(池田大作全集第74巻)

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1  ″世界の児童演劇のお母さん″サーツ女史
 伝統の「関東会」、そして初の開催となった「東京会」との合同研修会、本当におめでとう。また、ご苦労さま(拍手)。暑さも厳しい折であるが、きょうという日は二度とこない。ゆえに、少しでも広布の歴史に残しておきたいと思い、簡潔にスピーチをさせていただく。
 今回のソ連(=旧ソ連)訪問については、すでに「聖教新聞」紙上等で報道されており、皆さまも詳細をご存じのことと思う。それはそれとして、本日は、訪ソ中に再会した、ソ連国立モスクワ児童音楽劇場総裁のナターリヤ・サーツ女史について語っておきたい。
 サーツ女史の生涯。それは若き日の理想に生きぬいてきた、信念の生涯である。現在、八十七歳。だが、お会いするたびに、ますます若々しく、情熱にあふれておられる。天真爛漫というか、決して飾らない。つねにありのままの姿である。それがまた女史の″強さ″ともなっている。そして今もなお、子どもたちの芸術のために、世界中を回り、活躍の舞台を広げておられる。
 いかなる分野の人であれ、その人の真の価値を証明するものは、何を成し遂げたかである。偉大な人物は、やはり偉大な仕事を残すものだ。
 女史は子どもが大好きで、次の時代を担う天使として、健やかに育ってほしいと、心から願っておられる。現在も、つねに子どもたちの輪の中に飛び込んで、生き生きと対話されている。なかなかできることではない。
 皆から″ナターシャおばさん″と慕われている女史。ソ連では最高に人気があり、親しまれている人である。また、″世界の児童演劇のお母さん″ともたたえられている。
 女史は、これまで二十もの児童劇場を設立されているし、全世界で児童演劇の公演を行っている。この秋には、日本で三回目の公演が予定されているが、この来日公演を機に、女史の「自伝」の日本語訳が発刊されるという。(=『私が見つけた「青い鳥」』〈斎藤えく子訳〉のタイトルで潮出版社から一九九〇年十一月に発刊)
 これには女史の強い要望により、「池田先生に捧げます」との献辞が添えられるとうかがった(拍手)。まことに光栄に思っている。
2  行動なくして偉大な歴史はない
 さて、女史が″子どもたちの劇場″の仕事を始めたのは、いつのころか。
 それは十四歳の時であった。ちょうどその年(一九一七年)は、ロシア革命が起こり、国がソ連として生まれ変わった年でもある。
 建国以来、本年で七十三年。まさに、女史は新国家建設の歩みとともに、子どもたちの劇場のために、一貫して働いてこられた。女史の生涯にとって、それ以外には何もなかったといってよいほどである。ただ、子どもたちのために、との気高き自負で今日まで歩んでこられた。その姿は、いわば″子どもたちのための女王″といってよい。
 ところで女史は、八歳でお父さんを亡くされている。
 悲劇に出合った時に、わが人生をどう生きようとするか。希望を失わず、胸を張って懸命に生きぬくのか。それとも絶望に打ちひしがれてしまうのか。偉大な人生を歩めるかどうかの分岐点は、そこにあるといえまいか。
 苦しい生活の中で、女史は子どもながらも音楽の家庭教師をしながら勉強を続けた。また、この時、苦労して演劇、演出を学んだことが、後に大きく開花していく。
 若き日の労苦は、人生の年輪を増すにつれ、やがてすべてが生きてくるものだ。いわんや妙法を根本とした人生にあっては、なおさらである。
 そののち、十四歳の時に革命が起こる。戦いで街は荒れ果て、学校は閉鎖。学ぶ場を失った子どもたちは、いわば″野放し″のような状況になってしまう。
 女史は心に決める。″今ほど、子どもたちのために芸術が必要な時はない″と。
 そして即座に行動を開始する。行動なき人は、いかにうまく言葉で飾ろうとも、人間として信用されないものだ。
 女史はモスクワ市の演劇音楽局に就職。たった一人で児童演劇課をつくり、子どもたちの劇場のために働き始める。だれもその意義を認めてくれないなかでの出発だった。
3  この時、女史は誓う。
 「子どもたちと劇場――それは、芸術という地図の上にぬり残された白い空間である。そこに、私の手で、すばらしい地図を描いてみせよう」と。
 当時、子どものための演劇など、だれも見たことがなかった。「演劇は大人が見るもの。子どもには必要ない」と言って、人々は理解しようともしない。サーツ女史が若いゆえに、バカにする人々も多かった。
 しかし彼女は、″必ずやってみせる″との思いで、一人一人とじっくり語りながら、友人をつくり、理解者を増やしていった。
 侮辱され、臆病になって挫折してしまうか。堂々と、より強い決意で生きぬくか――。正しき行動の人は、たとえ無認識な人から軽蔑され、非難されようとも、必ずその偉大さは証明されるようになる。また、真剣な行動は、心ある人の共感の眼差しを引きつけずにはおかない。
 サーツ女史にとって、そうした友人の一人だったのが、二十世紀を代表するソ連の作曲家プロコフィエフである。彼は、女史の友情に応えて、有名な「ピーターと狼」を作曲し贈っている。
 ちなみに、この秋には、サーツ女史による来日公演が行われる予定になっているが、これはプロコフィエフの生誕百周年を記念するものである。

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