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日蓮大聖人・池田大作

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第二十七回本部幹部会 生涯若々しく生命の勝利者に

1990.3.27 スピーチ(1990.2〜)(池田大作全集第74巻)

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1  広布の無上の「時」を悔いなく
 新しい出発の本部幹部会、本当におめでとう。(拍手)
 本日は「千代田七百五十人会」(東京)、また時代の先端をいく「デザイン・グループ」(婦人・女子部)、また海外十三カ国からの代表も参加しておられる。
 さらに各地でも総会などが行われており、心からお祝い申し上げたい。
 私もこれから、いよいよ全国各地を激励にうかがわせていただく決心である。(拍手)
 本日、男女青年部の新しい体制が発表されたが、青年とは″戦い″の異名である。捨て身の戦いなくして、青年部の″魂″はない。
 口ではない。格好でもない。要領でもない。「信心」である。広宣流布の全責任を自覚して、すべてを祈り、立案し、一切を行動で切り開いていく。それが青年部の伝統であり、学会精神である。
 戸田先生は、よく「自分たちの努力で地区をつくり、支部をつくった者が偉いのだ」と言われた。できあがった組織のうえで踊っているだけの姿を、″戦い″と錯覚してはならない。
 日蓮大聖人は「一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ」――一生をむなしく過ごして、万年(永遠)の間、悔いることがあってはならない――と仰せである。
 いつか″本番″が来るのではない。今が、その時である。真実の学会精神を発揮して、新しき、戦う青年部を、皆の力でつくっていただきたい。(拍手)
2  生死不二である。私の胸中には、いつも恩師がいる。私は今も毎日、戸田先生と会話する思いで生き、戦っている。
 戸田先生はよく言われた。
 「時にめぐりあい、その時に生きるということは、人生の重大な問題である」
 「仏勅によって与えられた、広宣流布のこの日にめぐりあっているわれらの喜び、誇りはこれ以上のものはない」と。
 春は桜、秋は紅葉、万物に「時」がある。善きにつけ悪しきにつけ、だれ人も「時」のリズムから逃れることはできない。できるのは、今いかなる「時」かを自覚することである。
 思えば、わが創価学会の創立は、昭和五年(一九三〇年)十一月十八日。記憶違いがあったらお許し願いたいが、宗祖日蓮大聖人の第六百五十遠忌(昭和六年十月)、また、第二祖日興上人ならびに第二祖日目上人の第六百遠忌(昭和七年三月)という大佳節を迎えんとする「時」であった。
 そして昭和二十七年(一九五二年)、宗旨建立(立宗)七百年を迎え、学会は、前年、第二代会長に就任された戸田先生のもと、未曾有の大折伏の法戦を開始した。
 大聖人は諸御抄で、御自身の御出現が、日本に仏教が公伝してより「七百年」にあたることに言及なされている。
 「七百年」という歳月には、幾重にも深き意義が拝されてならない。
 かつて日淳上人は「開宗七百年を転期として一大流布に入ったということは正法流布の上に深い約束があるのではないかと感ぜられるのであります。これを思うにつけても創価学会の出現によって、もって起った仏縁に唯ならないものがあると思います」(『旦淳上人全集』下巻)と述べられた。
 まことに不思議なる仏法の「時」のリズムにのっとって、私どもは今、壮大な広宣の歴史を末法万年へときざみ残している。(拍手)
3  昭和三十六年(一九六一年)、私の会長就任の翌年には、大聖人第六百八十遠忌が奉修された。この年、日達上人を御案内してインドを訪れ、「日本の仏法の月氏へかへる」――日本の大聖人の仏法がインドヘかえっていく――の先駆けをきざんだことも忘れられない。
 また正本堂建立の前年、昭和四十六年は、大聖人の御聖誕七百五十年であった。
 この慶讃法要(二月十六日)の折、日達上人の表白文には「時なる哉、聖誕七百五十年。茲に稀代の大檀越、法華講総講頭池田大作あり。護惜建立の信心力に依って、将さに正本堂は完成されんとす。我が宗門は未曾有の繁栄をなす。日達衆徒と共に、幸いにこの盛時に遇い、喜び身に溢れり」(『日達上人全集』第三輯第一巻)とも述べてくださった。
 このように、事実のうえで、宗史の大佳節を、一つまた一つと荘厳できたことは、御本尊を荘厳申し上げたことに通ずる。私どもの永遠の福徳である。
 とともに″言論問題″の翌年である、この昭和四十六年は、「竜の口法難」七百年にあたっていた。さらに悪侶らの策謀がうずまいていた昭和五十三年は、「熱原法難」七百年にあたっており、それぞれ記念の法要が行われた。
 ともあれ、今というすばらしい「時」を自覚すれば、わが生命に歓喜がわく。大いなる感謝の思いと決意がみなぎってくる。学会とともに「広宣流布」と「一生成仏」への軌道を、まっすぐに進んでいこうという「信心」が定まってくる。三世にわたる「常楽我浄」の境涯を開くカギが、「時」の自覚に基づいた信心の実践なのである。

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