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日蓮大聖人・池田大作

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アメリカSGI婦人部研修会 生活の大地が正法と信仰の大地

1990.2.27 スピーチ(1990.2〜)(池田大作全集第74巻)

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1  本日は、全米の各地から代表の方々が集っておられる。遠路、本当にご苦労さまと申し上げたい。(拍手)
 婦人部の皆さまに、私がお願いしたいことは、ただ一つ、「だれよりも、幸福になっていただきたい」ということである。(拍手)
 人生の目的は何か。それは幸福である。ただ幸福にはいろいろな次元があるし、決して固定したものではない。相対的な幸福はたくさんある。
 仏法の目的は、成仏にある。現代的にいえば、絶対的な幸福――いかなることがあっても壊れない、負けない、崩れない、真実の幸福境涯を築くことである。
 日蓮大聖人は「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり」――すべての人間にとって、南無妙法蓮華経と唱える以外の遊楽、幸福はない――と断言しておられる。
 苦しみにつけ、喜びにつけ、何があっても御本尊に題目を唱えきっていく。その強き信心を貫くかぎり、煩悩即菩提の法理で、必ずや、これ以上ないという「所願満足」の人生の軌道となっていく。
 この、一切を喜びと満足に転じゆく大境涯の確立にこそ、真実の幸福はある。堂々たる、楽しき、遊楽の人生がある。
 広布の組織も、皆さま方お一人お一人に、絶対の幸福をつかんでいただくためにある。皆さまの幸福が目的であり、他は手段なのである。(拍手)
 また社会や生活の大地が、正法と信仰の大地である。信心を根本に、どこまでも社会を大切に、生活を大切に、わが家を大切にしてこそ、広宣流布の盤石な進展はある。「信心即生活」が、私どもの永遠の指標である。
2  さて、本日の婦人部研修会を祝福し、また全米からわざわざおいでいただいた感謝を込めて、創価大学の重宝の一部を、会合終了後、皆さま方にゆっくりとご覧いただきたい。
 まず、アメリカの歴代大統領の書簡。これには、ワシントンをはじめ、由緒ある大統領の自筆の手紙が、それぞれの肖像画とともに収められている。
 次は、ナポレオンが死の寸前に残した書簡集。また、イタリアの信教の自由を訴えた、別の書簡もある。
 第三には、ユゴーの『懲罰詩集』の初版本と書簡。詩集には、ユゴー自筆の献辞、サインが記されている。
 さらには、トインビー博士がダレス国務長官にあて、パキスタンの平和を訴えた書簡、ドイツの大音楽家ワグナーが「タンホイザー」の演奏について記した書簡、アメリカ独立の英雄ジョン・ハンコックのサインの入った公文書、そして有名なバルトロメオ・バンゼッティの書簡がある。
 バンゼッテイのものは、彼が無実の罪で処刑される直前、裁判所に対して再審を求めた十二ページにわたる手紙で、その中で「もし私が死刑になれば、裁判所が殺人罪を犯したことになる」とつづるなど、自由と解放を訴える″魂の叫び″に満ちている。
 これらの重宝は、いわば貴重な″歴史の遺産″である。このほかにも、平和・文化・教育の推進をめざすSGI運動の一環として、フランスにヴィクトル・ユゴー文学記念館を創立するなど、さまざまな次元で、人類の宝ともいうべき品々の保存・紹介に力をそそいでいる。こうした活動が、未来へ深い意義をもっていくことを申し上げておきたい。
3  仏法は生命を映す明鏡
 皆さまは、教養と品格ある女性であっていただきたい。知性と優しさのある女性は美しい。周囲も信頼し、安心することができる。また信心を深めるほど、知の世界が豊かに広がっていくのが、仏法なのである。
 リーダーも賢明さ、聡明さがないと、多くの人を納得させ、幸福に導いていく使命が果たせない。その意味で、本日は少しむずかしい面もあるかもしれないが、″鏡″をとおして、「信心」の重要なあり方を語っておきたい。(拍手)
 昔から日本では「鏡は女の魂」とする。″武士が刀を放さないように、女性は鏡を放さない″と、よく言われてきた。これは、どこの国でも同じらしい。鏡を、それこそ片時も手放さない女性も多いようだ。(笑い)
 この「鏡」には、仏法上、じつに多くの意義があり、多くの譬えにも使われている。
 大聖人も「惣じて鏡に付て重重の相伝之有り」――総じて、鏡については重々の相伝がある――と仰せである。
 ここでは、とくに私どもの信心に約して、簡潔にふれておきたい。
 御書には、こう記されている。
 「銅鏡等は人の形をばうかぶれども・いまだ心をばうかべず、法華経は人の形を浮ぶるのみならず・心をも浮べ給へり、心を浮ぶるのみならず・先業をも未来をもかんがみ給う事くもりなし
 ――銅鏡等は人の形を映しても、心は映さない。法華経は人の姿(色法)のみならず、心(心法)も映しだす。心のみではない。過去の業因をも未来をも、くもりなく映しだす――。
 鏡は、日に見える顔や姿を映す。仏法の鏡は、見えない生命をも映しだす。
 鏡は、反射の法則など光の法則を応用して、姿が映るように工夫した、人間の知恵の成果である。
 御本尊は「宇宙」と「生命」の法則に基づいて、″汝自身″の実相を見つめ、成仏できるようにした、仏の「智慧」の究極であられる。
 顔かたちを整えるには、鏡が不可欠なように、自分を見つめ、人生を見つめて、より美しく、より幸福な生活としていくには、″生命を映す鏡″が必要になってくる。
 ところで、先の御文で「銅鏡」とあったように、昔の鏡は銅、青銅、鉄など、金属を磨いたものであった。錫などをまぜて作ったようである。
 こうした金属鏡の最古のものは、中国、エジプトなどでできた。さらに古くなると、石の表面を磨いた鏡、また水鏡などとなる。ともあれ、鏡の歴史は、人間の歴史とともに古い。自分の顔を見たいというのは、人間の本能なのかもしれない。(笑い)
 こうした昔の鏡は、現在のガラス製の鏡と違って、おぼろげにしか映らない。だから、初めてガラス鏡を見た時、人々の驚きはたいへんなものだった。
 日本人が初めて、ガラス鏡に接したのは一五五一年(天文二十年)。フランシスコ・ザビエルが、伝道のため来日した時に持ってきたとされる。しかし、一般の人々が知るのは、十八世紀(江戸時代後半)になってからである。
 あまりよく映るので、この鏡を見てばかりいたせいであろうか、当時の人々は、ガラス鏡のことを「うぬばれ鏡」(笑い)と呼んだ。浮世絵にも、鏡をのぞきこむ女性の姿が描かれている。ガラス鏡の普及は十九世紀後半(明治時代)になってからである。
 ここはアメリカであるが、日本の皆さんのために(笑い)、日本での歴史を紹介させていただいている。アメリカでは、当然、開拓の初めの時からガラス鏡であった。

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