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日蓮大聖人・池田大作

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第十九回全国青年部幹部会 わが人生の最高峰を登りゆけ

1990.1.8 スピーチ(1989.8〜)(池田大作全集第73巻)

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1  世界の激動は「人間・平和主義」の曙
 全国の青年部の皆さま、新年おめでとう。
 私どもの新たなる歴史の舞台「一九九〇年代」が、いよいよ明けた――。
 八〇年代、世界は「分断」から「融合」へと劇的に転回した。戦争と対立の時代には、「平和」を訴えることがもとより大事であり、人々のもっとも求めるところでもあった。では、「平和へ」「協調へ」と時代の回転が速度を上げているなかで、人々の関心はどこへ移り、何が大切となっていくのか。
 結論して言えば、今後は、ますます「人間」自身に光があてられていくにちがいない。「人間」そして「生命」とは――この内面を見据えた確かな″視座″が重要になってくる。
 また、平和と安定の時代にこそ、「文化」の大樹を隆々と育て、交流の花を咲かせていくべきである。政治、経済とともに、文化と人間教育がいちだんと大切になろう。
2  昨年暮れ(十二月十三日)、私は著名な平和学者であるハワイ大学のグレン・ペイジ教授と再会し、懇談した。
 ベイジ教授は「非暴力社会」の実現を唱え、長年にわたり努力されてきた。その行動は、「正当なる目的を実現するための暴力は正当である」という従来の暴力肯定論と決鵬し、その転換をめざしたものであった。
 教授は、非暴力運動の目的について「人類に備わる暴力以外の能力の開拓」であるとし、そのために「非暴力地球社会センター」の設置を提唱している。そして「二十一世紀の市民一人一人が、まわ自分の周りに非暴力の世界を築く中心となるべきであり、日常生活を通じて非暴力社会の実現に向けて自己開発を心掛けるべきである」と呼びかけている。
 「非暴力」は、国家による巨大な暴力である戦争の否定から、個人の暴力行為の否定まで、あらゆるレベルを含んでいる。いずれの次元にせよ、その根本には「生命の尊厳」を断じて守りぬく強靭なる意志が不可欠である。ゆえに非暴力の運動は「人間」自身に焦点をあてていかざるをえない。
 教授が人間の「能力の開拓」「自己開発」を訴えているのも、人間をいかに変載しうるかに、運動の究極の成否がかかっているからであろう。
 私どもはこれまで、仏法という「絶対平和」と「生命尊厳」の法理にのっとり、「人間革命」という個人における生命の変革作業を軸として平和・文化運動を進めてきた。これこそ、人類がめざす理想社会の建設への正しき方途であると、教授のこうした指摘からも、私は確信している。
3  また、同じく昨年十二月には、国連本部の首脳の方々とも三度にわたり会談した。一度はラフューディン・アーメド、ヤン・モーテンソンの両事務次長と盆こ、もう一度は明石康事務次長と2十九日)であった。
 このときも、米ソ首脳会談に象徴される「東西冷戦の終結」と、国際社会の「新時代の到来」をめぐって意見を交換しあった。
 「冷戦」から「協調」へ、「対立」から「対話」へ、そして「独裁」から「民主」へという、新たな潮流のもとで、新しい世界秩序への模索が始まっている。今こそ人類の英知を結集して「戦争の世紀」にピリオド(終止符)を打ち、「平和の世紀」の幕を開いていくべきである、との点で意見の一致をみた。そして、「世界市民」の連帯の力で、国連を軸としながら新しい世界秩序の確立へ進んでいくべきであり、私ども「民衆」こそがその主体者であることを確認しあった。
 また時代の趨勢として、「平和」「軍縮」と同様に、「開発」と「教育」、「環境」と「人権」という問題が、ますます重要になってきている。
 これらについても私は、仏法者の当然の責務として、一つ一つ着実に行動してきたつもりである。たとえば、昨秋、私どもがニューヨークの国連本部で開催した「戦争と平和展」(=一九八九年十月二十三日から三十八日間、国連軍縮局、SGIなどの共催で開催した)に対しても、こうした人類の諸課題ヘの先見性と豊富な展示内容に、多くの称讃を頂戴している。また、世界各国からも賛同の声と巡回展への要請をいただいた。
 人類の幸福の実現という観点から、現在、国連が推進し、世界の知識人が訴えていることは、私どもが進めてきた「立正安国」の運動にすべて連動しているのである。

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