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日蓮大聖人・池田大作

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「11.18」記念合同幹部会 「偉大な道」歩む人が偉大に

1989.11.12 スピーチ(1989.8〜)(池田大作全集第73巻)

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1  偉大なる牧口先生の足跡
 きようはすばらしい晴天である。諸天も寿ぐような好天のなか、神奈川、東京の文京・江東区の代表らが集って合同幹部会を、さわやかに開催することができた。(拍手)
 そして何よりも本日は、福岡で、秋谷会長、森田理事長らが出席し、第七回九州総会が盛大に開かれている。また佐賀、長崎、熊本、大分、宮崎、鹿児島の各県でも多くの方々が集っておられるとうかがった。その喜々とした同志の姿が目に浮かぶようである。今回の九州総会には、私は残念ながら出席できなかったが、ここ学会本部の参加者の皆さまとともどもに、心から祝福を申し上げたい。(拍手)
 さらに、各地でも総会や記念の集いが開かれ、多くのメンバーが参加されている。心から「おめでとう。ようこそいらっしゃいました」と重ねて申し上げたい。(拍手)
2  そこで本日は、九州総会の晴れの開催を祝し、また学会の根本精神を後世に伝え残していく意義からも、まず九州広布の歴史をとおして、少々お話をさせていただく。
 牧口初代会長が出席して、初の九州総会が開催されたのは、昭和十六年(一九四一年)の秋十一月。ちょうど、今ごろの季節であった。場所は福岡県二日市の武蔵旅館。もちろん、学会の会館などなかった時代である。
 その時の参加者は約四十人。太平洋戦争勃発(昭和十六年十二月八日)の直前であり、社会に暗雲がたれこめていたなかでの開催であった。時に牧口先生、七十歳。総会には、奥さまとお嬢さまとともに出席されている。
 最晩年にあたるこの時期に、牧口先生は毎年、九州に足を運ばれている。――昭和十三年夏、鹿児島へ。十四年春、福岡の八女へ。十五年十一月には、福岡、久留米、八女、長崎の雲仙、さらに島原から荒尾、熊本を経て大分の別府へ――。そして翌十六年十一月に、この九州総会への出席となるのである。
 東京から九州へ、今なら飛行機で一時間半ぐらいだが、当時は列車を乗り継いでの長旅であった。旅費もたいへんななかで工面されていた。
 行く先々で、三里(約十二キロ)、四里という交通の不便な田舎道を、折伏の先頭に立って歩かれた牧口先生。ご高齢にもかかわらず、その足どりの勢いたるや、同行の人たちも、なかなかついていけないほどであったという。
 このように、牧口先生の行動は「大聖人の仰せどおりに、必ず広宣流布をしてみせる」との″大感情″に貫かれていた。要領や策など微塵もなかった。愚直なまでに、どこまでも「一人」のために尽くされた。これが私ども学会の創立者である。そして、この初代会長が、まさに五体をぶつけるようにして切り開かれたのが、九州広布の誉れある天地なのである。(拍手)
 本日、九州総会にお集まりの方々をはじめ、九州各県の同志の福運に満ちあふれた姿を、牧口先生もどれほどお喜びくださっていることであろうか。どうか、このことを強く確信し、最大の誇りとしていっていただきたい。(拍手)
3  人生に偉大な目的をもつ人は強い。偉大な仕事、偉大な道に生きる人は、みずからをも偉大にしていける。いかなる困難も悠々と乗り越え、つねに大きく境涯を広げゆくことができる。
 牧口先生の時代も、戸田先生の時代も、苦難の連続であった。そのなかから何としても活路を開かんとの、初代、二代会長の死闘に次ぐ死闘によって、今日の学会の基礎は築かれたのである。
 その「大恩」が胸中深くきざまれているがゆえに、私は、どのような困難にも、またどのような試練にも負けなかった。師匠が偉大だったからこそ、私はひたすら学会に仕えてきた。この信念は、これからも絶対に変わることはない。さらにさらに勢いを増しながら、報恩の誠を尽くしていくのみである。(拍手)
 さて、牧口先生を迎えての九州総会――この総会それ自体が、いわば波瀾の劇でもあった。
 会場に着かれた牧口先生。総会の準備にあたっていた役員が顔色を変えて報告する。
 「大変なことになりました。特高刑事が三人もきています。総会ができるかどうか……」と。特高とは特別高等警察のこと。戦前の警察制度で、政治思想関係を担当し、人々に恐れられていた。このころ、すでに牧口先生、学会への弾圧の手がのびていたわけである。
 この報告に、牧口先生は「なに大丈夫だよ」と悠然と応じられる。
 役員や周囲の人は″いや、危ないです。行かれないほうがいいです″と、牧口先生をとめたい思いであったかもしれない。だが、牧口先生は、何の恐れるふうもなく、平然と会場へと入っていかれた。

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