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日蓮大聖人・池田大作

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第十一回関西総会 広宣流布の錦州城たれ

1989.19.12 スピーチ(1989.8〜)(池田大作全集第73巻)

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1  草創の功労者を永遠に顕彰
 伝統をきざむ第十一回の「花の関西総会」、本当におめでとう。(拍手)
 先ほどは、「荒城の月」の見事な演奏があった。関西でこの曲を聴くと、やはり私は「錦州城」を思う。言うまでもなく関西は、永遠なる「広布の錦州城」である。その常勝の歴史を、まず私は心からたたえたい。(拍手)
 どうか関西は、全国に模範の仲の良い前進をお願いしたい。大阪を訪れると、数多くの草創の同志のことが思い起こされる。なかでも、今は亡き大井満利さん、玉置正一さん、婦人部では川坂久子さん。いずれも苦難の草創期にあって、懸命に戦い、黄金の足跡を残された方々である。
 私はそうした方々の労苦、功績を絶対に忘れない。日夜、真剣に追善している。明年、関西の記念墓苑が完成した折には、そうした方々の植樹もぜひ行いたいと考えている(拍手)。功労の皆さま方の栄光を永遠に顕彰させていただきたい。(=一九九〇年六月にオープン)
2  無冠の人間として強くあれ
 まことの勇者とは――。真実の信仰者とは――。御書を拝し、その点について少々、論じておきたい。
 「裸形の猛者の進んで大陣を破ると甲冑を帯せる猛者の退いて一陣をも破らざるとは何れが勝るるや
 ――身に何一つ着けていないのに勇敢に前に進んで敵の大陣を破る猛者と、甲冑(よろいやかぶと)で身を固めていながら敵を前に臆し退いて、一陣さえ破れない者とは、どちらが勝っているであろうか――。
 この御文は、真言の教えを破折し、「法華第一」を示されたものである。
 つまり、真言を擁護する論理として――法華経には、印契や真言といった形式がなく、裸形の猛者のようなものである。それにくらべ、大日経(真言の依経)は甲冑を身に着けた猛者である。だから大日経のほうが優れている――との論難があった。
 それに対し大聖人は、いくら立派そうに甲冑を自慢しても、実際に敵を前にしたときに尻込みしてしまう意気地なしでは意味がない。すなわち、現実に人々を幸せにしていく力がなければ、どんなに外面を飾り、偉そうに見せても、所詮、虚しいとの道理を示されている。
 総じて宗教には″権威の甲冑″が付き物である。教義が浅く、形式のみの宗教ほど、その傾向は強い。きらびやかな僧衣で飾る宗派も多い。(笑い)
 言うまでもなく、権威や形式は、宗教の内実、教義の高低とは関係がない。大切なのは、その宗教が本当に人々を幸せに導けるのか。強く、正しく生きぬくための源泉となりうるかどうかである。
 わが創価学会には、必要以上の飾りも形式主義もない。赤裸々な庶民と庶民の団体である。私どもは、ひたすら大聖人の教えのままに前進し、現実に数限りない人々を救った。広布を阻む幾多の″大陣″を打ち破った。権威でも形式でもない。ただ、「信心の力」によって広布の新天地を構築してきた。ここに、私どもの誇りがあり、誉れがある。
 地位や一肩書といった″甲冑″に、とかく人間はだまされやすい。とくに日本人は権威に弱いといわれる。しかし、政治家であるとか、名門の出身である、財力があるなどということは、人間の偉さ、尊さとは無関係である。
 ありのままの人間であってよい。ただ、いかに偉大な法をたもつか。深い哲学を持ち、胸中に高い境涯を築くか。ここにこそ人間としての真の価値と充実がある。
 いわんや、皆さま方は、さまざまな苦難と戦いながら、折伏を行じ、人々を幸福へとリードされている。その皆さま方こそもっとも偉大であり、「強い人」であることを、声高く申し上げておきたい。(拍手)
 その大切な仏子を調謝し、見くだすような言動に対しては、断固として戦い、反撃していかねばならない。みすみす看過し、悪を容認するようでは、法を下げることにもなりかねない。
 日蓮大聖人は、先ほども拝したように、他宗派の中傷の論理に対して、それを逆手にとられ、まことに見事に切り返されている。
 もとより次元は異なるが、正法を謗じ、仏子を貶める言に対しては、透徹した論理で反論し、戦う力を持たなくてはならない。そうした強さ、明晰さを持たなければ、仏子は守れない。また広く社会の納得と共感を得ることはできない。
 草創期の学会は、その意味で、まことに明快であった。強靭であった(拍千)。いかなる論戦にあっても、徹底して戦い、言論戦で相手を論破してきた。
 それが、時とともに広布の基盤がととのい、大きくなるにつれて、徐々に切り返す知恵と力を失い、いわば臆病になることを、私は深く危惧する。悪に対して言われるがまま、なされるがままに黙っているような、弱々しい″烏合の衆″となっては絶対にならない。それでは、正法をたもった信仰の勇者とは言えないからだ。
3  さて、このほど、皆さまのお力で、関西国際友好会館が完成した(拍手)。昨日も、パグウォッシュ会議のロートブラット会長と、そこで有意義に会談させていただいた。
 このパグウォッシュ会議の精神の柱とは何か。それは、一九五五年(昭和三十年)に発表された「ラッセル・アインシュタイン宣言」である。そのなかに、次の有名な一節がある。
 「われわれは、人間として人間に訴える――諸君の人間性を記憶せよ、そして、他のことを忘れよ、と」(ラッセル『人類に未来はあるか』日高一輝訳、理想社)
 バートランド・ラッセル、アインシュタインといえば、二十世紀の知性の最高峰といってよい。その人たちが、人類史の転換のカギとしたのは、科学でも、政治でもない、「人間性」の一点であった。ここに、徹して「生命」と「人間」に光をあてた仏法との確かな響き合いがある。
 私どもは、深遠な哲理を体した民衆と民衆の連帯で、「人間性」と「平和」を世界に開花させゆく運動を繰り広げている。その存在が、心ある人々にとって、どれほど希望であり、指標であることか。その大いなる自覚と責任感を持って前進していきたい。(拍手)

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