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日蓮大聖人・池田大作

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創立六十周年開幕記念支部長会 「新鮮」「明快」「柔軟」な人に

1989.7.27 スピーチ(1988.11〜)(池田大作全集第72巻)

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1  時代は「新鮮さ」の魅力を欲求
 暑い中の、皆さま方の日夜の活躍に対し、心から″ご苦労さま″と申し上げたい。
 時代の波は急速に動いている。その中で、きたる二十一世紀にだれが勝つのか、だれが新世紀を手中にするのか。今、生き残り(サバイバル)をかけた熾烈しれつな戦いが本格化している。経済界しかり、政界しかり、文化の世界も同様である。また、国も、団体も、個人においてもそうである。
 この時に、何が必要か。最も重要なものは「新鮮さ」の魅力である。「新鮮」であるかどうか、「フレッシュ」かどうか──ここに勝敗の決め手がある。
 ともかく時代のテンポは速い。情報量も巨大である。人々は何でもすぐに「きて」しまう。すべてはすぐ″古く″なる。そして、どんどん捨てられてしまう。
 言い換えれば、現代は「新鮮さ」そのものが「力」を持つ時代だといってよい。ゆえに、つねに時流を先取りしつつ、他のどこにもない、「新しい価値」を生み出していかねばならない。
 まず新しい人材の輩出──。先日もイギリスのサッチャー首相は、若返り人事を断行したが、若い、新鮮な人材をどんどん抜擢ばってきしていかないと、組織そのものが老い、よどんでしまう。
 私は、毎日、若い学生部や青年部の人と会っている。それは、未来のフレッシュな人材の育成のためである。とともに、若々しい生命と触れ合うことで私自身もリフレッシュされている。
 また、新しい企画、ビジョン、新しい表現、言葉を持たなければならない。新しいネットワーク、組み合わせ、たとえば壮年部と青年部の組み合わせとか、新しい地域と地域の連帯、融合といったことが大事である。
 さらに新しい情報、新しい夢(希望)をどう与え、持たせていけるか。そして新しい生命力をどう発揮していくかである。
 これらを、どう提供し、開発していくか──それが、あらゆる分野の″戦力″のポイントとなる。
 ただし、「新鮮さ」と「をてらう」こととは違う。あくまでも現実に即した「新鮮味」でなくてはならない。これが、時代の先取りであり、現代を勝ち抜く原動力である。
2  さらに「イキがいい」こと。魚や貝類でも「イキのよさ」が最高の美味である。また「もぎたて」のフレッシュさ。トウモロコシでも、もぎたての香ばしさ、おいしさは何ともいえない。
 「イキのよさ」や「もぎたてのフレッシュさ」を失ったものは、価値が大きく落ちる。人間の心も組織も、トロンとした目の魚や、くさりかけたカボチャのようになってはどうしようもない。
 「素人しろうと」の感覚も大事である。変に玄人くろうと(プロ)のまねをしないことである。
 とともに「明快さ」を失ってはならない。何を言っているのかわからないような話し方では相手の胸に届かない。「明快さ」は心をスッキリさせ、さわやかさを与えてくれる。
 また、背伸びしない「素直すなおさ」と「柔軟性」を持つことだ。背伸びをして″自分は何でも知っている。何でもできる″などと虚勢を張って見せても、長続きはしない。結局、自分が苦しむだけである。同じ人間である。決して特別な人間がいるわけではない。自分に「素直に」生きればよい。
 そして、あらゆる人の意見を″聞く″耳を持つことである。多くの人たちの意見を聞き、分析し、次の進むべき道をさぐる。競争に生き残り、発展している組織は、これを絶対に欠かしていない。言い換えれば、つねに勉強し続ける「謙虚さ」を失わないということである。これらを持続できた人や団体こそ、″時代の勝者″となっていけることを忘れてはならない。
 すなわち「自分自身への挑戦」をつねに行うことによって、みずからの生命を「リフレッシュ」する。つまり、「自己革新」を連続して行える生命力、それを持つことこそ真の革新なのである。
 私どもにとって、生命の革新の源泉は信心である。
 法華経(提婆達多品)に「こころに妙法をそんせるがゆえに 身心しんじん懈倦むけげんかりき」(並開結四二三㌻)とある。心に妙法を信じたもっているがゆえに、身も心も、み疲れて、いやになることがない。つねにすがすがしい、というのである。
 つまり、生命をつねに若々しくし、新鮮な躍動のリズムをかなでさせてくれる根本こそ信心であり、日々の広布の活動なのである。
 その意味でしっかり唱題に励んでいただきたい。睡眠を十分にとり、思索をし、広布の法戦への意欲を失わないことである。生命の「若々しさ」「みずみずしさ」をいつしか失い、「老い」と「にごり」の生命となってはならない。
 どうか、日々、信心を深めながら、新たな知恵と力と、はつらつたる行動で、幸福の人生と、広布の新舞台を開きゆく皆さま方であっていただきたい。
3  日尊の謗法wおただした一信徒
 さて話題を変えて、東北の話をしたい。さる五月には東北最高会議が開催され、″楽しい東北、楽しい同志″のスクラムで、二〇〇一年を目指して九百支部建設への堂々たる前進が始まった。
 東北にゆかりの深い「一閻浮提いちえんぶだいの御座主」たる第三祖日目上人も、このような東北の妙法興隆の姿をいかばかりかお喜びくださっているか、と思われてならない。
 ご存じのように日目上人は、その若き日より「みちのく」に何度も足を運ばれ、妙法広布の新しい天地を開かれたのである。日目上人が、この「みちのく」の庶民の仏子をどれほどいつくしまれ、大切にされたか。その仏子の清らかにしてうるわしい世界を守り抜くために、どれほど心をくだいておられたか。本日はその一端を、一つのエピソードを通して拝しておきたい。
 日興上人の講義中に、庭のなしの木の葉が落ちるのを、よそ見していて叱責しっせきを受け、その後十二年間にわたって勘当かんどうされた日尊にちぞんのことは、これまでも何回かお話しした。
 その日尊が、奥州で布教中に、神社への参詣さんけいを認める発言をしたことが伝えられている。もちろん、神社参詣が謗法ほうぼうであることは、大聖人の教義に照らして明白である。日尊が僧として指導的立場にあるだけに、その言動の狂いはじつに大きな影響をもたらしてしまう危険があった。
 大聖人は、根本の教義に関して絶対に妥協されなかった。謗法に対しては断固として弾劾だんがい呵責かしゃくされている。
 日尊の発言は、生命に染まった我見と謗法の表れであり、世間の風潮に言葉たくみに迎合したものでもあったろう。いつの時代にも、どこの世界にも、自分のために権威を利用しつつ″柔軟じゅうなんさ″や″幅広さ″を装い、人々を根本の軌道から逸脱いつだつさせていく人間がいるものである。
 だが、このとき奥州の又六またろくという信徒が、″それは自分たちが日目上人から学んできた大聖人の正法正義しょうぼうしょうぎに反する″と声を上げたのである。
 「立正安国論」に説かれた「神天上かみてんじょう(世の人々が正法に背くとき、諸天善神は守護の国土を捨てて天に上がってしまうこと)の法門」を、又六は知っていた。奥州の門下に対する日目上人の行学の薫陶くんとうは、それほどまでに隅々に行き届いていたのである。
 教学をしっかり研さんしていなければ、仏法の正邪を見極めることができない。私は東北最高会議の折、教学部員十二万人の提案をさせていただいたが、こうした歴史を踏まえてのことである。
 とともに、次元は異なるが、私どもの広布の世界にあっても、言うべきことは言っていくべきである。疑問や悩み等を抱えたままでは皆が思う存分に力を発揮できない。とくに活動の第一線で一番苦労されているのが婦人部の方々であり、幹部は、婦人部の意見を十分にくみ取っていっていただくよう、強くお願いしたい。

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