Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第十九回本部幹部会 新しき天地を新しき勇気で

1989.7.14 スピーチ(1988.11〜)(池田大作全集第72巻)

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1  心を包み心を開く「対話」こそ
 ここ世田谷の東京池田記念講堂での本部幹部会は初めてのことである。きょうは、アメリカ、イタリアなど海外十九カ国・地域の皆さまも参加されている。有意義にして晴れやかな幹部会の開催を祝福申し上げたい。
 はじめに、伊豆東部の沿岸地域では、地震のため被害が出ている。この席をお借りし、皆さまを代表して心からお見舞い申し上げたい。
 きょうは、まず御書の「聖愚問答抄しょうぐもんどうしょう」を拝して話を進めたい。
 同抄は、私も若き日に繰り返し繰り返し拝読し、心肝に染めた御抄である。しかし長文の御書でもあり、少々難しいかなとも思ってきたが、地元のある最高幹部の話によれば、どうやら世田谷の方々は違うようである。
 第一線の皆さまのほうが総じて理解が深く、真剣に話を聞く。かえって幹部の方々のほうが多忙のため疲れて話がわからず、途中で居眠りをしたりするというのである。真偽しんぎはともあれ、未来をになう若き指導者、そして後世の幾百万の人々のためにも、言うべきことはきちんと言い残しておきたいと思う。
2  「聖愚問答抄」は、題号の通り、「聖人」と「愚人」の一対一の問答・対話を中心として展開された御書である。
 「愚人」とは、末法凡愚ぼんぐの衆生を表し、それに対し「聖人」は、日蓮大聖人のお立場を示していると拝される。
 さて、「愚人」は、「聖人」に巡り会い、その言葉に耳を傾けるが、小乗・権教ごんきょうに対する「聖人」の峻厳しゅんげんな破折を聞き、いささか感情的になる。
 「ここに愚人色を作して云く汝賤き身を以てほしいまま莠言ゆうげんを吐く」──この時、愚人は顔色を変えて言う。″汝はいやしい身でありながら、ほしいままに悪言を吐く″と──。
 これに対し「聖人」は、あくまで冷静である。
 「汝が言然なり」──あなたがそう言うのも、もっともである──と、まことにふところ深く受け止められている。
 正法正義しょうぼうしょうぎに、さまざまな暴言・悪口あっくがあるのは御書、経文に照らして必然である。それに対しては、厳然と反論し、論駁ろんばくしていく強さがなくてはならない。しかし、強さだけですべての人を、心から納得させることはできない。むしろ、相手の主張もやわらかに受け止め、理解を示してこそ、対話はさらに深まり、実り多いものとなっていく。
3  重書中の重書である「立正安国論」も対話・問答形式でしたためられた御書である。そこでも、顔色を変えて憤慨し、席を立とうとする「客」に対し、大聖人のお立場を表す「主人」は「み止めて」──微笑をたたえ、帰ろうとする客をとどめて──話を続けたとされている。
 このように、無知や無理解の言葉が投げられ、理不尽な態度があったとしても、一切を莞爾かんじと受け止め、悠々ゆうゆうと、自在の対話を続け、納得させていかれる。ここに、″境涯の芸術″″対話の妙″ともいうべきものが拝されてならない。
 いかなる相手であれ、一切の感情を広く大きく包みながら、どのように心を開き、納得と共感を広げていくか。それはすべて、私どもの境涯にかかっているといってもよい。相手の喜怒哀楽に悠々とさおさしながら、自在に、心の奥深くにぎ入っていく融通無礙ゆうずうむげの境涯を開いていく以外にない。ここに、対話の人間学の精髄がある。
 妙法を唱え、実践されている皆さま方は、無上道を歩まれている方々である。最高無比の境涯を、日々、着実に開いているといってよい。生命に開かれた財は永遠であり、それからみれば世俗の″財″や″位″など、まことにはかない。その誇りも高く、私どもは堂々と前進してまいりたい。

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