Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第十六回本部幹部会 広布への「行動の人」こそ仏子

1989.4.19 スピーチ(1988.11〜)(池田大作全集第72巻)

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1  「勝利王」の人生をともども
 大好きな岐阜の大地を、あの忘れえぬ第一回「中部青年平和文化祭」以来、じつに七年ぶりに訪問することができた。このように、皆さま方にお会いでき、これ以上の喜びはない。
 「岐阜」という名には、天下をも包みゆくような広がりがあり、気宇壮大な響きを感じる。ご存じのように、この地名は、古代中国の王・周の文王が″「岐山きざん」にって天下を定めた″との故事、また孔子の生誕地「曲阜きょくふ」にちなんで、名づけられたといわれる。
 「岐山」とは、現在の中国・陝西省せんせいしょうにあり、「天柱山」「天桂山」「鳳凰ほうおう山」とも呼ばれた、中国北部の名山である。また周の文王は、古来、最高の名君の一人とされてきた賢王であり、日蓮大聖人も多くの御抄で、その徳政をたたえられている。
 たとえば「報恩抄」には、「周の代の七百年は文王の礼孝による」──周の世が七百年もの長い間続いたのは、文王の礼孝による−−正しき政道にのっとり、仁徳あつく、民を大切にした文王の威徳があったからこそ、長年、周は栄えたとの仰せである。
 先日(四月十四日)、現在の中国のリーダー・李鵬りほう首相と、短時間ではあったが、仏法の眼から見た指導者論を語り合った。きょうは、いわばその延長として、岐阜での本部幹部会開催の意義も含めながら、真実のリーダーの在り方について、論じておきたい。
2  史書によれば、元来、周の人々は、先祖伝来の「ひん」という地域で、長年、暮らしていた。その住み慣れた土地をあえて捨て去り、彼らは「岐山」に移り住んだ。それは、文王の祖父の時代のことである。その祖父も、「大王」と尊ばれる名君であったが、なぜ、「大王」が「岐山」への移住を決めたのか。ここに、今も中国の人々にうたい継がれる、美しき歴史のドラマがある。
 唐の大詩人・韓愈かんゆは、うたった。
   ……   ……
   今狄之人  いまてきの人
   将土我疆  まさに我がさかいらんとす
   民為我戦  民我が為に戦わんとす
   誰使死傷  誰か死傷せしめん
   彼岐有岨  有り
   我往独処  我れきて独りらん
   爾莫余追  なんじれを追うことかれ
   無思我悲  我れを思うて悲しむことかれ
3  ──いま狄(てき)の人たちが、わたしの領土を占領しようとしている。人民はわたしのために戦おうとするが、その人たちを死なせたり傷つけたりできるものか。あの岐山には要害の地がある、わたしはそこへ行ってひとり住むことにしよう。君たちわたしのあとからついて来てはならぬ、わたしのことを思って悲しんではならぬ──。(『中国詩人選集11 韓愈』清水茂注、岩波書店)

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