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日蓮大聖人・池田大作

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記念関西支部長会 偉大なる「精神」が「精神」を触発

1989.2.2 スピーチ(1988.11〜)(池田大作全集第72巻)

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1  学会は民衆の校舎なき総合大学
 二十一世紀を目指しての堂々の「記念関西支部長会」、まことにおめでとう。晴れやかな開催を心から祝福したい。
 きょうは小説『スカラムーシュ』(ラファエル・サバチニ作)を通して、お話ししたいと思ったが、昨日、懇談会で周囲の人に聞いてみても、あまり読んだ人はいない。小説の名前だとわからない人さえいる。そこで急遽、予定を変更することにした。
 簡単にいえば、この小説はフランス革命の激動の時代を舞台に、一人、正義の証明のため、悪の打倒に立ち上がった青年の物語である。
 次元は別にして、日蓮大聖人の御入滅後、日興上人は、一人厳然と正法正義を守られた。また学会では、戸田先生が、師・牧口先生を獄死させた権力の魔性への復讐(ふくしゅう)を誓われた。
 師の心を心として、悪と戦い、断固、一切を勝利へと導いていく。その強き一心一念が、どれほど自身の巨大な力を引き出すことか。
 ともあれ「仏法と申すは勝負をさきとし」と大聖人は仰せである。勝負すると自分で決めた時は、絶対に勝たねばならない。悪に勝つことは善であり、悪に負けることは悪を助長させることになるからだ。
2  『スカラムーシュ』をはじめ、戸田先生は私ども青年に水滸会すいこかい、華陽会等で、古今東西の英知に通じる話をしてくださった。現在、学会は、そうした伝統を大きく広げながら、仏法を根底にした平和・文化・教育の運動を世界に展開している。
 「教育」といえば、当然、私の生命ともいうべき創価大学、創価学園がある。それはそれとして、学会全体が、いわば「校舎なき総合大学」といってよい。人間を育て、人間の指導者を育成する、民衆の中の壮大な「人間教育の場」である。その意味から、私はさまざまな角度からスピーチもさせていただいている。
 これからのリーダーは、信心を根本に、知性豊かであっていただきたい。そうでなければ、多くの人を納得させることはできないし、かえって法を下げてしまう場合もある。
 一切法は仏法に通じ、仏法は一切法に開かれていく。ゆえに社会の万般の事象にわたって論じられる力をつけていく努力も必要である。そして明快に、人の心の奥の奥まで、指導の光を届かせる力量を養っていかねばならない。そうした指導者が増えれば増えるほど、社会の人々に妙法の偉大さを堂々と示し切っていける時代に入っている。
3  先日、創価大学卒のある優秀な青年から、手紙がきた。その中にラルフ・W・エマソン(一八〇三〜八二年)の教育論の話があった。そこで少し、このことにふれておきたい。″若きアメリカ″を代表する、たくましき、そして誠実な知性の思想家・エマソン。彼は私が青年時代に熟読した一人である。戸田先生からも読むようにと言われた。
 彼の『人間教育論』に、こういう一節がある。
 「自然の教師を囲んで、おのずと作り上げた『自然の大学』というべきものは幸の場である。ソクラテスを囲むアテネの青年達にとってもそうであったように、プロティノスを囲むアレクサンドリアの青年達にとっても、またアベラールのまわりのパリの青年達、フィヒテやニーブールやゲーテのまわりに集まったドイツの青年達にとっても、幸せの場であった。すなわち、これは先端を行くあらゆる思想と精神におのずと具わった姿なのである」(Selected Prose and Poetry, Rinehart Editions, 1958)
 エマソンの言う「自然の教師」「自然の大学」とは、一言でいうならば、形式でも強制でもない。権威でも、また義務でもない。青年が、その魂の本然から自発的に求めてやまない、本物の「師匠」のことであり、魂の触れ合う「学びの場」のことである。
 その意味から、私は創価学会こそ、民衆のための、人生と信仰の「自然の大学」であると申し上げておきたい。

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