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日蓮大聖人・池田大作

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第三回中部総会 自身の決めた道を堂々と歩め

1989.1.21 スピーチ(1988.11〜)(池田大作全集第72巻)

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1  広布の堅塁・中部の歴史
 平成元年(一九八九年)初の地方指導は、どこにすべきか、さまざまな意見があったが、秋谷会長とも相談し、結局、ここ中部に決定した。盛大にして朗らかな、第三回「中部総会」の開催を、私は心から祝福申し上げたい。
 中部は、この数十年、あらゆる苦難の坂道を上り、苦難の峰を乗り越えてこられた。そして一切を切り開き、ここについに栄光さんたる盤石な中部を築かれた。今や、日本中が、あらゆる意味で、中部に注目し、またあこがれていく時代に入ったといってよい。
 文字どおり、広布の″堅塁けんるい″となった中部。その建設の歴史は、今年で満三十七年を迎える。昭和二十七年(一九五二年)八月、戸田先生みずからの弘教の転戦によって幕が開かれたのである。これは永遠に刻まれた歴史の事実である。
 この年は建長五年(一二五三年)四月二十八日、日蓮大聖人の立宗宣言より七百年という意義深き年に当たっていた。
 戸田先生は、この立宗七百年を迎えるに際し、次のように述べられた。
 「しくも、日本国に仏法渡来してより七百年、末法の御本仏・日蓮大聖人が、ご出現あそばされ、権実雑乱ごんじつぞうらんを正された。その大聖人の立宗より七百年の今日、日本国あげて本尊雑乱の時である。
 学会はいま、日蓮大聖人の命をうけて、弘安二年十月十二日におあらわしになられた、一閻浮提総与いちえんぶだいそうよの大御本尊を、日本に流布せんことを誓う」(第六回総会講演)と。
 昭和二十七年の夏、炎暑の中部・名古屋をはじめとする初の本格的な地方折伏は、まさに戸田先生が深く仏法上の「時」を感じ、踏まえられての偉大なる「一歩」であった。
 ここから今日の大中部が始まった意義と使命を、皆さま方は鋭く自覚していただきたい。
2  日目上人の死身弘法の道
 中部といえば、私どもにとって永久に忘れられない歴史がある。いうまでもなく第三祖日目上人の有縁うえんの天地であることである。
 元弘三年(一三三三年)、厳寒の十一月(現在の十二月中旬)、日目上人は京都への諫暁かんぎょうのため、この中部の大地をあゆまれていた。東海道を三河の豊川(河)、岡崎へ、さらに尾張の熱田、一宮へと。
 この年の五月には鎌倉幕府が滅亡し、六月に、いわゆる「建武の新政」が始まっている。まさに時代が大きく移り変わるカオス(混沌)の渦中であった。そこにはすでに、その後六十年近くにもわたって続く「南北朝内乱」の火ダネがはらまれていた。
 民衆の安穏と幸福は、あまりにも遠く、人々を救う真実の正義がどこにあるのか、やみはあまりにも深かった。その真っただ中を、日目上人は、大聖人そして日興上人の御心のままに、「立正安国」への壮絶なる戦いに、一人立ち上がられたのである。
 どこまでも「師弟」の精神に生きる崇高すうこうなお姿であられた。時に日目上人は七十四歳。付き従うおともは、わずか二人であった。
 しかも、すでにお体はかなり衰弱されていた。御出発前の、あるお手紙にも「これも左つぶふしを十余日やみて、右のそばはら側腹わずらい候也」(『歴代法主全書』)――左足のくるぶしを十余日ほど病み、右のわき腹をわずらいました――と記されている。
 足の痛み。それは、幾たびにもわたる奥州(東北)弘法をはじめとする転教の旅、また四十二回にも及ぶといわれる京・鎌倉への諫暁など、奔走ほんそうにつぐ奔走の結果であった。その痛み、疲れ、こごえる高齢のお体にもかかわらず、日目上人は決然と旅だたれた。そして前へ、また前へと歩みを続けられた。
 そのことを思うとき、私どもは、まだまだ若い。そして″進まざるは退転″であり、生涯、最後の一歩まで、ともどもに広布への今世の旅を歩み抜いてまいりたい。
 私も、創価学会の″第三代″として、いよいよ、これからが本格的な戦いであると自負し、また決意している。
3  日目上人は、ここ中部の美濃の国(岐阜)・垂井たるいの地で、ついに御遷化ごせんげなされた。十一月十五日のことである。
 戸田先生は論文「創価学会の歴史と確信」の中で、次のように述べられている。
 「学会員は、ご老齢の身をひっさげて大折伏の途上、お倒れあそばした日目上人のご命を命として、宗開両祖(=大聖人・日興上人)にむくいたてまつらんとしなければ、成仏はかないがたしと知らなければならない」(『戸田城聖全集』第三巻)と。
 ここに学会精神の骨髄がある。戸田先生の、そして日目上人と同じ、数えの七十四歳で殉教じゅんきょうなされた牧口先生の「大確信」がある。また「大闘争心」がある。
 まさに日目上人の死身弘法の「道」に、学会は真っすぐに連なっている。そして今も続いている。ここに学会のほまれがあり、限りなき前進のたましいと命がある。
 この「道」をともに行くゆえに、確実に成仏の方向へ、常楽我浄の金剛の境涯へと進んでいくことができる。またこれだけの発展を遂げることができた。この「道」をはずれ、退していったならば、それは永遠の苦悩と悔恨かいこんの自身となろう。
 ともあれ、この″我等の決めた道″を、何があろうとも堂々と、胸を張り、立派に歩み切ってまいりたい。その人こそが大聖人、日興上人、日目上人から最大に称賛される人であるにちがいない。
 そして、どこよりも、日目上人有縁の中部の友こそ、この″信念の旅路たびじ″の模範の勝利者であっていただきたい。

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