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日蓮大聖人・池田大作

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第十三回本部幹部会 決然の「一人」から革命の波

1989.1.21 スピーチ(1988.11〜)(池田大作全集第72巻)

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1  平和への道を歩んだスウェーデン
 今宵の月天子は、ことのほか美しい。平成元年(一九八九年)初の本部幹部会を祝うがごとく、また、皆さま方を守るがごとく、すがすがしく光っている。
 きょうは、少々、難しい話になるかもしれないが、後世の人々が、必ずや、平成元年初の本部幹部会はどんな会合であったか注目するにちがいないし、教育部、また学生部等、俊逸しゅんいつの方々、さらに海外の代表もいらっしゃるので、重要な話をしておきたい。どうかご了承願いたい。
 先日(一月十九日)、スウェーデンのヘイマン大使と会談した。大変に見識が高く、印象に残る方であった。
 いうまでもなく、スウェーデンは、スカンジナビア半島の東半部に位置する北欧の国である。西側ではノルウェー、北東ではフィンランドと国境を接し、海峡をへだてた南側にはデンマークがある。
 緯度は、アラスカとほぼ同じで、国土の約七分の一が北極圏に含まれる。面積は、日本のおよそ一・二倍。人口は約八百三十五万人である。とくに、森と湖の国として知られ、国土の半分以上は針葉樹林であり、湖沼こしょうと河川で約九%の面積を占める。
 北欧は、民謡の豊かさでも有名だが、なかでもスウェーデンは「歌の森」と呼ばれる。深い縁をたたえた大森林。青々とした水面みのもには、北の陽光が燦々さんさんと降り注ぐ。そこに流れる、のどかな民謡のメロディー。まさに心うるおう美しき情景の風土といえよう。
 また、首都のストックホルムは″北欧のベニス″ともいわれ、水と緑織り成す風光明美めいびな都市である。
 スウェーデンは、ナポレオン戦争のあと、一八一四年に結ばれたキール講和条約以来、じつに百七十五年もの間、中立を貫いている。この間、クリミア戦争(一八五三〜五六年)、第一次世界大戦(一九一四〜一八年)、第二次世界大戦(一九三九〜四五年)とヨーロッパを巻き込む戦争があったが、一度も参戦していない。
 さらに第二次世界大戦後は、いちはやく国連に加盟し、東西、南北の立場を超え、一貫して平和、軍縮、人権への活動を進めている。
 こうした、変わらざる平和への歩みに、私は深く感銘する。
 ご存じの通り、一九八四年九月には、首都・ストックホルムで「核兵器――現代世界の脅威」展が開かれた。約三万人が入場し、多大な反響を広げたが、開幕式には、カールソン首相(当時副首相)も出席し、スピーチをしてくださっている。
 また、世界で最も権威ある平和研究の機関の一つである「ストックホルム国際平和研究所」も、スウェーデンの平和への姿勢を象徴するものといえよう。一九八六年八月には、同研究所のブラッカビー所長と東京でお会いした。これからも、平和への実りある対話を続けていくことになっている。
2  ところで、スウェーデンが近代国家として独立したのは、一五二三年のことである。この独立を指揮したのが初代の王グスタフ一世(一四九六〜一五六〇年)であった。
 独立前のスウェーデンは、北欧三国のカルマル同盟の一員として、デンマーク王を共通の王としていた。とくにクリスチャン二世はスウェーデン支配の強化に乗り出し、それに対抗する国内勢力との緊張が高まっていた。
 のちのグスタフ一世、グスタフ・バーサは名門貴族の子として生まれた。父は、デンマークからの分離・独立を説く独立派に属し、子のグスタフ・バーサも、祖国の独立を夢見ていた。
 一五一八年、若き彼は人質としてデンマークに送られ、幽閉ゆうへい生活を送る。しかしからくも脱出に成功し、故国に帰る。が、一五二〇年、クリスチャン二世はスウェーデンに進軍し、独立派を徹底的に弾圧。その指導者をあざむき、虐殺ぎゃくさつする。約百人が殺されたこの事件を「ストックホルムの血浴けつよく」というが、このなかに、グスタフ青年の父や義理の兄弟、そして一族の多くが含まれていた。
 これ以上、悲しみを繰り返したくない。この悲劇に幕を引くためにも、祖国の独立を実現せねばならない――若きグスタフは、我が生命に解放への情熱をたぎらせ、凛々りりしく立ち上がる。
 いつの世にあっても、時代のを開き、新たな鐘を鳴らすのは、″一人立つ″青年である。一人の勇者の透徹した信念と行動が、万波の波動を呼び起こし、偉大なる変革を成していく。
 自己の保身に執着する権力者が恐れるのは、この「一人」である。また、新時代を待望する民衆が求めてやまないのも、この「一人」である。広布のリーダーである皆さま方は、その時代革新の先駆を走る誉れの「一人」であることを忘れてはならない。
 独立達成のためにふたたび行動を始めたものの、グスタフの歩みは順調ではなかった。同志の多くは殺され、所有地は没収、首には懸賞金がかけられた。彼は、農民に身をやつして、伝統的に革命機運の高い地であるダーラナ地方に向かう。
 かろうじてダーラナ地方に着いたものの、住民は長い戦乱にみ、疲れていた。グスタフの必死の呼び掛けにも、応じてくるものはなかった。グスタフの悲嘆はあまりにも大きかった。しかし、彼は独立の望みをあきらめはしなかった。自分「一人」でも、独立の理想の灯を持ち続ければ、いつの日か必ず、民衆が彼のもとに集い、ともに立ち上がることを確信していたのである。彼は時を待つべく、国外脱出を試み、ノルウェー国境へと向かった。
 ところが、ほどなく、クリスチャン王の暴政を知らされた住民は、決起を決意。急いでグスタフを追い掛け、呼び戻す。そして、グスタフを中心に独立の戦いを展開。またたくまに全土の支持を集め、クリスチャン王の軍隊を破る。一五二三年六月六日、グスタフは国王に選出され、ここに独立は達成された。
3  生涯平和を求めた女性作家ラーゲルレーブ
 さて、北欧といえば、児童文学の宝庫でもある。デンマークのアンデルセンをはじめ、フィンランドのトペリウス、ノルウェーのビョルンソン、アイスランドのスウェンソン、スウェーデンのリンドグレーンなどの作家が、少年少女のために数多くの傑作を残している。
 そのなかの一人、セルマ・ラーゲルレーブ(一八五八〜一九四〇年)は、女性初のノーベル文学賞受賞者として著名である。スウェーデンが生んだ世界有数の女性作家である彼女の代表作『ニルスのふしぎな旅』は、多くの外国語にも翻訳ほんやくされ、スウェーデンの近代文学の高さを世界に知らせたといってよい。日本でも七十年前に紹介され、その時は『飛行一寸法師』というタイトルであった。
 彼女は、由緒ある家柄の出身で、父親は文学愛好者であった。が、彼女は小さいころから、足が不自由であった。三歳半に完全に歩行不可能となる。そこで、学校には通わず、周囲から伝説やおとぎ話を聞いて育った。おのずと書物にも親しみ、文学的な情操をはぐくんでいった。文学を一生の仕事としたい――これが、少女の生涯の夢となった。若き日を、やはり病弱で過ごした私には、その気持ちがよくわかる。
 ラーゲルレーブは、身体のハンディキャップにもかかわらず、まず教師を目指す。しかし、家の経済状態は悪化しており、教員養成所の入学金は借金でまかなった。
 教師のかたわら、彼女は文学の創作にいそしむ。父親の死や経済的な苦境にも負けず、精いっぱい、青春の情熱を文学に注いだ。そして三十二歳の時、懸賞小説の一等を獲得し、その作品『イェスタ・ベルリング物語』は、翌年出版された。この成功が、青春の夢の実現への出発となるのである。

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