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日蓮大聖人・池田大作

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墨田、荒川区記念支部長会 後世に不朽の″深き人生″を

1988.10.12 スピーチ(1988.5〜)(池田大作全集第71巻)

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1  子母沢寛氏と戸田先生
 きょう十月十二日は、本門戒壇の大御本尊御図顕の日である。この佳き日に、ご参集の皆さま方と深い友情と同志愛で結ばれながら、「妙法」と「人生」を語り合えることに心から感謝申し上げたい。
 先日、ある一人の青年から、「ぜひ、先生に」と、一冊の本が寄せられた。それは戸田先生がつくられた出版社から発刊された本であった。題名は「大道」。同名の小説をはじめとする作家・子母沢寛しもざわかんの作品集である。
 あるとき私は「英雄には悲劇がつきものである」との戸田先生の言葉を紹介したことがある。かの青年も、その場に居合わせていた。そこで月刊誌「潮」の「人間と文学を語る」の対談でも触れた、この「大道」という小説も、歴史に埋もれた悲劇の英雄を描いたものですからと、届けてくれた。
 さらに彼は、この小説に対する所感も丁寧に書き綴って添えてくれた。私はすぐに読ませていただいた。後継の若き学究の徒の「真心」に対して、私は「誠意」をもって応えていきたい。
 その意味からきょうは、この「大道」の内容を紹介しながら、話を進めさせていただきたい。戦前の小説でもあり、時代感覚が現代の人にはなじみにくいところがあるかもしれないが、私どもの生き方にとっても示唆するところが多いと思う。
2  子母沢寛氏は、皆さまもご存じのように戦前、戦後を通じて人気を博した有名な作家である。
 戸田先生と子母沢氏がともに同じ北海道・厚田村の出身であることは、よく知られている。
 戸田先生は明治三十五年ごろ、一家で石川県から厚田村へ移住されている。一方、子母沢氏は明治三十八年まで同村に住んでおり、お二人は二、三年の間、同時に厚田で暮らしていたことになる。戸田先生は当時三歳から五歳くらい。子母沢氏は先生より八歳年長であった。
 後にお二人が、同郷のよしみもあり、大変に仲良く交際をしておられたことは、先生のもとにいた私も良く知っている。先生が子母沢氏の「大道」を発刊されたのは昭和十五年。その際、この作品にちなみ出版社を「大道書房」とされた。
 私のもとに届けられた本も当時の大道書房刊の単行本で、大変懐かしい思いがした。
3  子母沢家が厚田村に移住したのは明治の初年。旧幕臣であった子母沢氏の祖父が、彰義隊に参加して敗れ、さらに落ちのびた函館でも五稜郭の戦に負けて、生き残りの仲間とともに身を寄せたのが厚田村であった。
 勝敗の現実の姿は厳しい。いかなる戦いであれ「敗北」は辛く、敗残の身はあわれである。
 徳川の世から一変して、明治政府のもとでは旧幕府に連なる者は人物の実力とは関係なく冷遇された。現実は文字通り「勝てば官軍、負ければ賊よ」の姿を如実に示していた。
 祖父を尊敬していた子母沢氏は、人間の実像と社会の評価のあまりの落差に対して、幼心にも憤りを抑えることができなかったのであろう。「正義」とは、「歴史の真実」とは何か──。氏は生涯、「勝者によって書かれた歴史の表通り」ではなく、「陰に埋もれた人間の真実」を発掘し残すことに努めた。この「大道」もその一つである。
 かのナポレオンは「歴史とは合意の上の『つくり話』以外の何物だろうか」と言った。彼は「歴史」というものがいかに勝手につくられ、真実が覆われてしまうかを喝破していたといえる。
 この偏見とまやかしの構図のために、これまでどれほど善人が悪人の汚名を着せられたか。反対に、どれほど悪人が善人として功名を残していることか──。
 紙は白い。白いゆえに何でも書ける。″傲りの力″に「正義」が負ける時、敗者に声なく、″ウソ″に″真実″の装いを着せて歴史はつづられていく。その意味で「正義」であるがゆえにこそ、断じて最後には勝たねばならない。負ければ、その「正義」もゆがめられてしまう。とともに、″文字でつづられた虚偽″を見破る「史眼」「心眼」というものをもたなければならない。

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